潮風よ縁があったらまた会おう


完本・列伝 太平洋戦争―戦場を駆けた男たちのドラマ (PHP文庫)

ネジリ鉢巻の艦長は、またもとののんびりと煙草を
くゆらせるだけの艦長に戻っていた。
救助の途中で、敵潜水艦の近接をレーダーがしきりに告げていたが、
なお雪風は動かなかった。
救助された大和の参謀が艦橋に駆け上がってきて
「雷撃の危険あり、早く艦を動かせ」
と、しきりに催促した。
確かに、停止した駆逐艦など、敵潜水艦にとっては、
これを撃沈することは赤子の手をねじるに等しかろう。


はじめは馬耳東風に寺内艦長は聞き流していた。
が、ネジリ鉢巻の顔をぐいと、
うるさい言う参謀に振り向けると、艦長はついに爆発した。
「うるさいッ、余計なことを言うな。この艦の指揮官は俺なんだッ。」
この時、艦橋にいた雪風乗組員は、
われらが艦長の大尉時代七年間という海軍きっての
劣等珍記録のわけが身にしみてわかった。


同時に、泣きたいような感動に揺さぶられた。



「完本・列伝太平洋戦争」半藤一利

大和乗組員の救助にあたった初雪は、敵潜水艦から攻撃をうける危険があった。
にもかかわらず救助中止を示唆する幕僚を艦長はどなり上げ、それを続けた。
こうした艦長や士官は少数派かもしれないが、
己の危険を顧みず味方の命を救わんとした人間は海軍に確かにいたのである。
この一事をもって、刀を振るった海軍士官の有無を証すことはできないが、
私はなかったであろうと信じる。





http://news.goo.ne.jp/news/sankei/shakai/20050620/m20050620000.html

吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
救助艇指揮官「事実無根」


戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に
海軍少尉として乗り組み奇跡的に生還した吉田満氏(昭和五十四年九月十七日死去)が
作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。
この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、
救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者(兵士)が船べりをつかんだため、
指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、
手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。
これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80)は
「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、
大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、
軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。
その理由として

  1. 海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない
  2. 救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない
  3. 救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった

と指摘した。
松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って
吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。
吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」
との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されなかった。


松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、
旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、
吉田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。
しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、
同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、
「戦後六十年を機に事実関係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。

(6/25追記)
http://secular.exblog.jp/1032754
どうやら、吉田氏は小説を出版する際、GHQの検閲を受けて推敲(?)していたようです。