ソウちゃんとタケちゃんの夢7

 レースの後、夕闇がアデレードを包むころ、市内の日本料理店で、会社スタッフによる宴が開かれた。創業者のオヤジを迎えて、四輪世界最高峰のレースでチャンピオンとなったことを祝うことを前提として事前に予約がされていたものだった。
 
 レース序盤でネルソンはスピンしていたが、その後はミスを補ってあまりあるパフォーマンスだった。ネルソンは、最後までチャンピンにふさわしい走りをみせた。ネルソンはファステスト・ラップを重ねてアランに迫ったが、アランは動じることなく勝負に徹して82周を走りきった。アランもまたチャンピオンにふさわしかった。アランはネルソンよりわずか先にゴールに達した。ネルソンがゴールに到達したのはアランの4秒後だった。なぜ勝てなかったのか? エンジンの出力も燃費もポルシェよりも会社のエンジンの方が上だった。チャンピオンとなるために何が足りなかったのか―?、油断があったのか、ヨシは自問を続けながら席に着いた。

 宴会の会場は、畳が敷き詰められた日本風の部屋だった。異国での生活が続き、やっと帰国できるー畳の匂いに押さえ込んでいた故国への慕情があふれだしそうになった。ヨシの心を祖国へのなつかしさがしめた。だが、それはわずかな時間だけで、再び勝負に勝てなかった口惜しさが首をもたげた。

 ヨシがやるせなさと格闘しているうちに、オヤジが娘夫婦ともに会場にやってきた。全員が盛大な拍手で迎えた。現場から引退していたオヤジとともに勝利の美酒を味わうことをヨシは望み、それを叶えることができなかった無念がヨシの心を重くした。「せっかく、日本から来ていたオヤジさんに申し訳ないことをした」ヨシはオヤジに土下座してあやまりたかった。最終戦で勝利を逃がした会社のスタッフも、似たような気持ちだった。レースの結果にがっかりしながらも、ヨシを励まそうとしたアニキの言葉がよぎった。来年こそは―、ヨシは固く心に誓った。

 乾杯の音頭をとってもらうために若いスタッフがやや緊張しながらオヤジに申し出た。宴会に参加していたのは若いスタッフばかりで、オヤジと一緒に仕事をした人間はほとんどいなかった。最年長のヨシですらオヤジから怒声を浴びせられたのは1、2年に過ぎなかった。それでもスタッフ全員がオヤジの激しさを伴った情熱を知っていて、直接の薫陶はなくてもそれを受け注いでいる自負があった。

 オヤジは機嫌よさそうに頷いて、ビールが注がれたコップをもって畳より一段ばかり高くなっていたステージの上に進みでた。そこでヨシたちは信じがたい光景に遭遇した。オヤジはステージの赤いカーペットの上に正座して、コップを脇において手を床につけて深々と頭を下げた。宴会場にどよめきが起きた。満面の笑みを浮かべながら矍鑠としたオヤジの言葉が胸に響いた。ヨシは思わず嗚咽を漏らした。まわりのスタッフも衝撃を受けて、目に涙を浮かべた。

「世界一になるという私達の夢をかなえてくれてありがとう」

ソウちゃんとタケちゃんの夢6

「ナイジェルの燃料は大丈夫か?」ヨシはピットクルーに尋ねた。
「はい、このペースであれば5リッター以上残ります」

 昭和61年11月オーストラリア、アデレード。この年は、最高峰レースのチャンピオンシップは混戦となり、ドライバーズ部門は最終戦まで決定が持ち越されていた。最終レースが始まる時点でランキングトップは5勝のナイジェルだった。最終戦を3位以上でフィニッシュすればチャンピオンが確定する。ランキング2位のアランと3位のネルソンにも逆転でチャンピオンになる可能性はあったが、それはレースに勝利してかつナイジェルが4位以下でゴールというのが条件がついた。1位のナイジェルと3位のネルソンが会社のエンジン・ユーザーだった。

 前年途中、ヨシ達が設計した新エンジンのテストはことの他上手くいった。テストの結果に希望を見出したパートナーのフランクから新エンジンの投入を催促されるに至り「オレのエンジンを下ろすからには絶対に勝て」とノブのアニキは引き攣った顔でヨシに厳命した。意地やメンツよりも結果で語るーそれが会社の生き様ーそう理解したヨシは、全精力をレースに傾けた。結果、シーズン4勝を勝ち取った。前々年まで合計で3勝だった会社の総勝利数を上廻る好成績にノブのアニキは「オレのエンジンを引きずりおろしたからには、これぐらいの成績は当然だろう」と腹の中で葛藤している嬉しさと悔しさを隠しきれずに言った。このエンジンでチャンピオンを狙えるーヨシは前年末、その手応えを掴んでいた。

 最高峰クラスのレース復帰して5年目、フランクのチームのエンジンを提供して4年目になるこの年、ネルソンとナイジェルの二人で15戦のうち9つのレースで勝利をおさめ会社は初のコンストラクターズ部門のチャンピオンを獲得し、オヤジがめざした世界一を一つ達成していた。ただし、最高峰のレースにおいてチャンピオンというのは、コンストラクターズ部門ではなく、ドライバーズ部門の勝者というのが相場であった。そのドライバーズ部門の最高位も、あと30周たらずで手に入る―現場にいた社員は誰もがそう考えていた。サーキットで車の整備を行うピットクルーの半分は会社からの派遣組が占めており、ピットは初めての世界制覇を期待する雰囲気で満ちていた。82周で競うレースの55周が終わったとき、ナイジェルは4位を走行していた。

 ターボ・エンジンで競われていたこの年のレギュレーションの最大の特徴は、レース開始後の燃料の給油が禁止されていたことだった。つまり参加するマシンはスタート時に搭載している195リットルのみの燃料で速さを競うことになっていた。燃料がなくなったマシンはその時点でレースが終了となった。レース序盤から中盤にかけて極力燃料の消費を抑えて走り、”貯金”ができた時点でスパートをかけるのが定石の一つとなっていた。レース中盤ナイジェルの順位が4位に落ち着いていた時、レースをリードとしたのはケケだった。ケケは昭和57年のチャンピオンで昨年まではフランクのチームで走っていた。昭和59年会社に17年ぶりの勝利をもたらした立役者でもあった。ケケが現役最後を公言していたこの年、彼はポルシェ・エンジンのロンのチームを選び、昨年のチャンピオン・ドライバー、アランのチームメートとなっていた。ケケがチームを移籍した理由についてヨシは正確なところを知らなかった。契約金だったのか、フランクとの関係がこじれたのか、それともフランクのチームよりポルシェを載せるロンのチームの方が勝ち目が多いと踏んだのか―。正確な理由は本人のみぞしるだが、ともかく今年のケケは、倒すべきライバルとなっていた。

 ケケは、フィンランド人らしく勇敢なドライバーで、市街地を得意としていた。一般の道路を封鎖してコースとして利用する市街地レースは、ガードレールでコーナーの出口が隠れることが多いため、レース専用のクローズド・サーキットにはない恐怖心がドライバーを襲う。歩行者や対向車がいないと頭ではわかっていても、出口の見えないコーナーは死への恐怖が首をもたげるのだ。一秒に満たないほんのわずかの逡巡がドライバーにアクセルをためらわせ、勝負のアヤとなることもしばしばあり、ケケはそのアヤをつかむのが上手かった。前年のアデレードは、フランクのマシンと会社のエンジンとケケの組合せが勝利をおさめていた。

 アデレードの市街地コースのレースを先頭で走るケケをヨシはオーバーペースと判断した。敵のチームの燃料消費状況について正確なところはわかないが、彼は1年間戦ってきた相手の性能をほぼ理解していた。「燃料が持つわけがない。アランにチャンビオンを取らせるためにレースの展開をひっかきまそうとしている」とヨシは読んだ。ヨシはエンジンの責任者であった。レース全体の指揮はチーム・オーナーのフランクがとるものの、エンジンや燃費の計算、タイヤ交換についてはヨシがハンドリングしていた。マシンに取り付けたテレメーターは会社のもので、そのデータを読み解いて判断することはヨシにしかできなかったからだ。
「ケケは無視して大丈夫だ。ナイジェルの燃料をチェックしておけ」ヨシは、チームクルーに指示を出した。クルーからナイジェルにペースをキープしろとのオーダーが出された。ヨシは残り3周前後でケケの退場を予想していたが、それよりもずっと早い62周目にケケの最終レースが終了した。残りあと20周となった62周目、ケケの車がストレートを走行中、後輪のタイヤがバーストした。この日好天に恵まれたアデレードは気温が高かった。そしてタイヤの耐久性に大きな影響を与える路面温度も高くなっていた。タイヤのサプライヤーからは、タイヤ交換なしで82周の完走は可能という判断が示されていたが、ケケの荒い走りはサプライヤーの予想以上にタイヤを酷使していたのだ。

 ケケの退場でネルソンがトップとなり、ナイジェルは3位に繰り上がった。ナイジェルがチャンピオンの座をほぼ手中にしたとサーキットの誰もが思った。
「ケケのタイヤがいっちゃいましたね」
「ああ、彼はタイトなコースは速いけど、タイヤのグリップをフルに使うからな」と口を開いたスタッフにヨシは答えた。しばらくして「まあ、ナイジェルも似たようなタイプだな」と続けた。
「タイヤ交換させますか?」スタッフが尋ねた。
「そうだな、4位との差どれくらいだ」ー「40秒以上あります」
ピットでタイヤ交換すると一周のラップは約30秒ほど遅くなる。約10秒間のタイヤ交換の作業時間に加えて、作業場所であるピットに入るための減速とコースに復帰するまでに加速する時間を必要とするからだ。
「よし、ナイジェルにピットインの指示を出せ」ヨシは、クルーに指示した。しかし、サインボードを確認したナイジェルがその指示を実行することはなかった。

 63周目、時速200キロメートル以上のスピードでストレートを走っていたナイジェルのマシンにアクシデントが訪れた。突然、轟音とともに後輪が破裂し、数秒前までタイヤを構成していた黒いゴムは回転しながら1、2秒のうちに四散した。それをとどめる手段を思いつく間もなく、後輪のホイールがむき出しとなり、アスファルトを削り火花を散らした。モニターを見つめていたヨシは、タイヤを失いながらコース外で停止したナイジェルのマシンを見て頭の中が真っ白になった。ケケのリプレイであってくれ、自分の見間違いであってくれと祈った。しかし、サーキットはケケの時以上の悲鳴に包まれていた。レースの実況を放送していたスピーカーはカーナンバー6番とともにナイジェルの名前を何度も絶叫した。
 
「落ち着け」ヨシは自分に言い聞かせて平静さと思考を取り戻そうとした。ナイジェルがリタイヤしても、まだネルソンが走っている。ケケがリタイヤしたあとはネルソンがトップを走っていた。このままレースが終わればネルソンが逆転でチャンピオンだ。「ネルソンとアランの差は?」10秒です」間髪を入れないスタッフの答えに満足しながら、ネルソンが逃げ切れるとヨシは計算した。

 しかし、タイヤのサプライヤーから緊急の指示が全チームに入った。
”安全のためタイヤ交換を強く奨励する“ー「チッ」ヨシは舌を打った。タイム差からしてネルソンがタイヤ交換すると先頭をアランに渡さなければならなくなる。アランはレース序盤のトラブルでタイヤ交換をすでに実施していた。つまり、サプライヤーの指示はアランには適用されない。ネルソンを無理して走らせるか?しかし、ナイジェルのようにタイヤを破裂させてしまえば、全てが終わる。チャンピオンを獲得にはアランのトラブルを期待することになるが、ドライバーの安全には変えられない。クルーはネルソンがピット前を通過するまでにサインを決める必要があった。交換が遅くなればなるほど挽回できる周回が少なくなり、状況は厳しくなる。10秒足らずの時間でヨシは決断した。

 ネルソンにタイヤ交換の指示が出た。

ソウちゃんとタケちゃんの夢5

「ヨシさん、どうします?」会議に陪席していた後輩のスタッフが尋ねた。
「アニキの気の変わるのを待っていたら、シーズンが終わる。とりあえず設計を進めて試作品を作っておこう。テストや実車への搭載は作りながら考えよう」
「そんなことしていいんですか」後輩は驚いたような面持ちで再び尋ねた。
「俺はアニキに、チームを勝たせろ、と言われた」「はあ」後輩は納得していない返事をヨシに返した。
「アニキのエンジンは20年前のものだ。20年前だったらいざ知らずそんなエンジンを使っていたら、勝てるものも勝てない。アニキの機嫌をうかがってレースに負け続けるのと、新しいエンジンで勝つの、どっちがいい」
「そりゃ勝つ方がいいに決まってます」
「だったら、やることは一つ、勝てるエンジンをつくることだけだ」

 レースに復帰して3年目、アニキから責任者を命じられたヨシはシーズン3勝を役員と約束して予算の増額を認めさせていた。レース責任者とはいえ三十代半ば過ぎの係長クラスが要求したところで簡単に認められる類の金額ではなかったのだが、本社の副社長に昇進が内定していたアニキがレース活動を仕切っている事情が考慮されたことで、ヨシは活動資金を確保することができた。
 そして、ヨシを始めとする若手はエンジンの設計を着々と進めた。アニキのノブは、自身の設計が若手に否定されたことで激しい憤りを覚えたが、それだけだった。結果がすべて―15年前引退したオヤジはそういっていた。


 昭和40年代後半、会社はオヤジの主張と若手の主張が真っ向から対立し、会社の歯車がかみ合わなくなっていた。当時若手エンジニアだったノブたちは、単純な設計に基づくユーザー視点のエンジンを至上のものとするオヤジの考え方が限界に来ていたことを感じていた。このままでは会社が持たない―ノブのアニキたちはこの件をオジキのところに持ち込んだ。オヤジが技術で、オジキが経営・販売を所掌し、それぞれはお互いのシノギに口を出さないという二人の不文律は、社員ならば誰でも知っていたが、あえてそれを破った。八方塞がりとなったアニキ達はルールを守っても会社を守れなければ意味がないと判断した。

 新しい考え方でエンジンを作らなければ早々に会社がつぶれる未来図が見えるアニキ達は必死になって、オジキに訴えた。オジキはアニキたちの話を一通り黙ってきいた後「君たちの言いたいことは分かった。そのまま社長にいいなさい」と回答して翌々日にオヤジと若手エンジニアのミーティングの場をセットアップした。
ノブのアニキたちは狐に包まれたような気分になった。研究所でいくら説明しても理解を示さなかったオヤジが、ミーティングくらいで考えを変えるとは思えなかった。

 しかし、ミーティング当日、オヤジは一方的に怒り狂ってしゃべった後、「そんなに新しいエンジンやりたきゃ、やればいいだろう。ただし、失敗したら給料はないと思え」と机をたたいて退室した。会社消失の危機を回避しようとしたノブたちの要求は何も言うこともなく、あっさりとみとめられた。

 実は、アニキたちがオジキに直訴した後、オジキはオヤジとなじみの店で杯を酌み交わしていた。その席でオジキはオヤジに「ソウちゃん、この会社はアンタの技術者としての意地があったからここまで大きくなった。今、二輪車の売り上げはまずまずだが、四輪車が伸び悩んでいる。あたしには技術のことは分からん。ただ、四輪車のコストがかかり過ぎるているのは黙認できない、何でだ?」とオヤジに説明を求めた。

 オジキの口ぶりからノブのアニキ達がオジキに泣きついたことを察したオヤジは「タケちゃん、オレのエンジンでもまだやれるんだよ、説明したところで理解できるかどうかわからないけど、まだやれるんだ」とオジキの口撃に予防線を張った。オジキは、一息ついて徳利を差し出し、オヤジの猪口に酒を注いで口を開いた。
「あんたはあたしに経営を任せた。そしてあたしはアンタの領分である技術には口を挟むことなくこれまでやってきた。あたしはアンタの器に合わせて会社を大きくしたつもりだし、これからもそのやり方で大きくしていくつもりだ。」オヤジは黙って聞いていた。「アンタのその技術者としての意地は、アンタが社長を務めるこの会社をつぶしても守らなきゃならない大事なものかもしれない」口調こそ柔らかだが、有無を言わせないオジキの迫力にオヤジは詰った。
「だから、一つ聞かせてくれ、アンタは社長なのか、技術者なのか」オジキは覚悟をもってオヤジに即断をせまった。言葉の調子からオジキの心中を理解したオヤジは長い間沈黙ののち、ようやく言葉を一つ絞り出した。「技術者のプライドも大事だが、会社はもっと大事だ」

 オヤジが曲げなかった意地を曲げた瞬間だった。オヤジの心うちを読み取ったオジキは安堵した。「それじゃ、ノブたちに新しいエンジンを作らせますね」とオジキは確認をとった。「ああ」と返答したオヤジは「年を食ったな、俺も」と平手で自分のパチっと叩いてオジキにだけみせる素の弱い顔をあらわにした。オヤジの言葉に応じるようにオジキも「あたしもだ」と答えた。二人は顔を見合わせて、カッカッと笑った。

 オヤジが技術者としての限界を認めた3年後、オヤジは会社から身をひいた。技術開発、研究所の人材育成を含めた計画やらノウハウの一切合財を後任に指名したキヨシのカシラとマサの大アニキに丸投げした。突然、二代目に指名されたキヨシのカシラは技術以外の仕事は俺のシノギじゃねぇ、と一週間ばかり出社拒否して駄々をこねたが、その駄々をあやすことがオヤジの最後の仕事となった。キヨシのカシラに丸投げされたもののなかに一つの心得のようなものがあった。社訓めいたものが少ない会社だが「日本を強くするために先人の技術を乗り越えろ」という生き方が伝承された。

 技術開発を行う研究所では技術者のあいだで「その技術は会社の利益になるか、日本の未来を明るくできるか?」の問答と議論が繰り返されることが常だった。勿論、そうした研究所のハリある空気はオヤジの情熱を引き継いだものだが、その研究所を作りあげた最大の功労者はオジキだった。研究所を社内独立させることで経営よりも技術を優先する会社の姿勢を明確にして、世界に通用する技術こそが存在意義であることを内外に示した。研究所が開発した製品を本社が買い取って生産するという他社に例をみない会社独自のシステムは、反対意見をねじ伏せたオジキの剛腕と技術絶対の信念があったからこそなしえた代物だった。そのオジキもオヤジと一緒に引退した。いつまでもジジィがいたら、若い衆が一人前に育たねぇんだよ、というのが理由だった。やはりオジキも仕事を後任に丸投げしたが、オジキの跡継ぎは駄々をこねることはなかったそうだ。オヤジとオジキは会社からいなくなって、社内はお通夜みたい静かになったが、その静かさを乗り越えて会社を成長させることが二代目らの初仕事にして最大の仕事となった。

ソウちゃんとタケちゃんの夢4

「ヨシ、もう一遍いってみろ」
「ノブのアニキの作ったエンジンは古いといったんです」
 アニキの目が大きく見開いていた。ヨシはノブが本気で怒っていることが分かった。
昭和60年2月、世界一を目指して四輪のフォミュラーレース最高峰に挑んでいた会社は壁にぶち当たっていた。研究所のナンバー2になっていたノブのアニキが会社の役員を説得してレース復帰の段取りつけてから3年、会社は捗々しい成果を残せずにいた。昭和36年マン島TTに勝利し、その後バイクレース全クラスで年間優勝を果たした会社は、四輪の最高峰レースにも昭和39年から5年にわたって挑んだ。その頃、二輪と四輪の両方のレースでエンジンづくりに携わったエンジニアは数人いた。ノブのアニキもその数人のうちの一人だった。

 二輪は参戦して3年で初勝利をもぎ取り、その年に年間優秀、つまりは世界一の座を獲得したが、四輪最高峰のレースでは、5年間で2勝したのみで主役の座をつかむことなく舞台から降りていた。世界一ははるかに遠かったが、届かない目標とは思えなかったとノブのアニキは言っていた。しかし、昭和40年代になるとオイルショック、排ガス規制と自動車業界を取り巻く環境が一気に変わり、それまで突っ走ていた会社の勢いは急速に衰え、若手のエンジニアをレースで鍛える余裕は消えた。オヤジが掲げた世界一への挑戦は、その入口に立つこと自体が困難となった。道半ばでの撤退はオヤジとしても不本意であっただろうし、現場で躍起になっていたアニキたちの口惜しさも筆舌に尽くし難かっただろうとヨシは推測した。実際、撤退が決まった頃、アニキはレースの世界にどっぷりつかっていて、会社を辞めてヨーロッパのチームに加わりレースを続けようとしていた。レースの現場責任者で四輪レースの元締め的存在であったナカさんは、引き留めるどころか「俺も若けりゃなぁ」とノブのアニキを羨ましがった。

 そんなアニキを引き留めたのが、今の社長であるマサの大アニキだった。「会社の仕事をこなしてさえいれば、社外でレース活動してもいい」という条件で慰留したとのことだった。アニキにしてみれば、格落ちのレースとはいえ勝負できるのであればしばらく我慢してやってもいいか、くらいの気持ちだったらしい。
アニキを納得させたそのマサの大アニキも若いころはレースにどっぷりハマっていて、会社が最高峰クラスに挑戦する以前に、国内のあちこちのレースで手伝いと称してエンジンのチューンナップしたり、パーツを横流して結構なヤンチャをしていた。ウチの車のユーザーならオヤジやオジキも黙認していたが、ライバル社の車もチューンしたというから、ヤンチャをするにもほどがある。ヨシが入社したころ、大アニキはレースの現場から離れていたが、オジキにワビを入れて事なき得たことは会社の技術者の間で伝説と化しており、ヨシも勝負にこだわる大アニキを尊敬していた。本当に三度のメシより勝ち負けが好きな連中ばかりが集まっていた会社だった。

 そんなヤンチャだった現社長のマサの大アニキは、ノブのアニキを後継者に考えているらしく、研究所のナンバー2にして本社に役員の椅子を用意した。役員なんて柄じゃねえと断るアニキに、レースの続きをやりたきゃ、黙って受けろと無理やり座らせた。意にそぐわなかったとはいえレース好きのアニキが会社の事業計画に公然と口を挟める立場になったことで、四輪レースの再挑戦は会社の規定路線となった。アニキは役員になって2年で、レース再開のための大名分を整え、会議で予算を分捕り、チームを発足させ必要な資器材やレースパートナーの手配などを指示して、陣容をほぼ最短時間で作り上げた。しかし、計算高いアニキも一つ見込み違いがあった。それはエンジン設計者の手当がつけられなかったことだ。当時会社は新車の発表が延々と続く時期であり、社内にいたエンジン設計屋のスケジュールは2年先までほぼ埋まっていた。だったら、レースに復帰する時期を少しずらせばいいのに、その少しを我慢することがアニキにはできなかった。結局、アニキが自分でエンジンの図面を引いてレースに復帰することにになった。曲がりなりにも上場企業の役員だから、そんな暇などあるはずないのだが、レース復帰をプレスリリースする頃には図面をほぼ完成させていた。18年前の設計をベースにしたエンジンを現行のレギュレーションに合わせだけのシロモノだったかもしれないが、それでも簡単にできる類の話ではなかった。

 ヨシに言わせれば、ノブのエンジンは埃と錆にまみれた設計思想だった。ヨシはそれをノブ本人に古いと伝えたことで罵声を浴びせられた。ただその古いエンジンが昭和59年のアメリカの市街地開催レースで勝利を勝ち取っていたのだから恐れ入る。勝利を悦ぶより、アニキのエンジニアの腕に舌を巻かざるを得なかった。だが、1勝しようが古いものは古い。エンジンで生じる排出ガスでタービンを回して、エンジンに入り込む気化燃料を増量させ、燃焼によるパワーを増幅させるターボ・エンジンは、高回転で高出力を目指した時代の設計と根本的に違う。回転数の高低よりも、全体的なバランスが重要となっっていた。コーナーとかエンジンの回転が落ちる時に出力が極端に低くなる欠点を克服できない構造の古いエンジンでは、他社のエンジンに勝てる目はない。ノブのアニキが設計したエンジンが勝利した理由は、天候やコースレイアウトの関係でエンジンの差がつきにくく、かつドライバーが市街地を得意としていたことに助けられた部分が大きかった。それ以外のクローズド・コース、つまり普通のサーキットでは他のメーカーのエンジンとの性能差は明らかとなり勝負に持ち込むことすらできなかった。

「高回転、高出力のエンジンのどこが悪い」オヤジは、15年前に引退したがオヤジが目指したエンジンの回転数を高めて、高馬力を追求する考えは会社のお家芸になっていた。車体の軽い二輪車はそれで問題はなかった。しかし、重い四輪車では通用しない。タイヤが余分に2個ついているだけでなく、エンジンからの出力をタイヤに伝えるシャフト、ドライバーのシート、ベルト、流線形のボディ、タイヤの接地効率を高める羽根、そして強烈なGが加わる車体の剛性を支える補強材、そのいずれもが極限まで軽量化が図られているが、規定で総重量を500キログラムをいくばくか越えることが定められていた。これに燃料やドライバーの体重が加わる。レース全体では最高馬力を出せる時間と区間はごく限られており、500キログラム以上の物体の加速と減速を絶え間なく繰り返す時間の速さが求められていた。

最高峰のレースといえども、最高出力ではなく回転数が変化しても出力を滑らかにできるエンジンの方が強いのである。レースに勝つためには会社従来のものと別なロジックが必要だった。それはオヤジから続いている高回転エンジンとの決別を意味した。最高峰のレースで低迷が続く現状を見かねて、アニキが緊急のミーティングを設けたが、怒り出したアニキが席を立ったため、会議はお開きとなった。

ソウちゃんとタケちゃんの夢3

「ソウちゃん、世界を目指そうよ」オジキの言葉を続けた。
「……」オヤジは目を瞑った。
「会社にはでっかい夢が必要なんだよ。うちの会社には技術もある、日本に貢献するというソウちゃんが掲げたぶっとい芯もある。あとは大きな目標があれば、会社はまだまだ伸びる。」
「……」オヤジは黙ったままだった。
「あんたと5年やってきた。その俺がいう、あんたの器は大きい、あんたに合わせた会社を作りあげるから世界を目指してくれ」オジキの言葉にかみしめたあとオヤジは「……わかった、タケちゃん世界一の会社を作ってくれ」といった。

自分で製作した自動車で、全世界の自動車競走の覇者となる……同じ敗戦国であるドイツの隆々たる復興の姿を見るにつけ、わが社の此の難事業を是非完遂しなければならない。
日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。わが社の使命は日本産業界の啓蒙にある。ここに決意を披歴し、TTレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。右宣言する。

 オヤジは、オジキに世界一の会社を作ってくれと頼んだ1週間後、社内と関連会社に世界を目指すこと宣言文を発表した。戦争特需の終わりとともに勢いだけあった会社が日本の産業界からポツポツと消えていた時期、ウチの会社もそうなると思う人間も少なからずいた。事実、従業員、関連会社、メインバンクのどれか一つでもそっぽを向けば、そうなっていてもおかしくはなかった。そんな会社から唐突に飛びした世界への宣言は、はた目には悲壮な覚悟というよりも滑稽な三文芝居に映ったことだろう。しかし、世界一を目指すという目標は、現場で働く従業員の肌に浸透し、長い時間をかけて会社の血肉となった。ただ、それがわかるには20年以上の時間を必要とした。

 昭和29年3月末、怒涛の決算期をどうにか凌いだ後、オジキはオヤジをイギリスへ送り出した。オヤジのイギリス遠征は2か月に及んだ。5月に開かれた株主総会は社長不在のまま迎えた。オジキに言わせれば、社長が外遊するくらいの余裕があれば倒産するわけがないと、株主や関係者が勝手に思い込んでくれることを期待して送り出したというものだったが、嘘の下手なオヤジが馬鹿正直な発言をして余計な仕事を増やさないための段取りだったと穿った見方をした古参の社員もいた。案の定、株主総会では厳しい質問が飛び交い、解任動議が採決されてもおかしくない不穏な雰囲気が流れることもあったが、過剰ともいえた設備投資に対する効果は遅くとも来年のアタマには現れてアンバランスな収支も改善できる見込みであることをオジキが粘り強く丁寧に説明して、メインバンクがオジキの計画を支持したことでなんとか持ちこたえることができたらしい。最後は、2年後のマン島TT出場を宣言し、会社の更なる前進を約束して締めたということだった。倒産の何歩か手前にいった会社が世界進出など、株主にしてみれば正気の沙汰とは思えなかっただろう。とりあえず自信に満ち溢れた言動、世間ではハッタリともいう高等技能を駆使してオジキは総会を乗り切った。ただし、そのあと疲労困憊で1週間ほど起き上がれなくなった。決算期前からのこの期間、相当の心労がオジキにかかっていたことは誰の目にも明らかだった。

 社内のあらゆる部署に神出鬼没しては火を吐くオジキと現場でいつもカミナリを落とすオヤジの二人がいない会社は、静かで仕事に集中するにはうってつけの状況だったが、ほとんどの社員はどこかぎごちなく、仕事にさほど身が入っていなかった。騒がしすぎるのもこまりものだが緊張感を欠いた業務も効率が上がらないことを社員は学んだ。だがそうした状態も長くは続かなかった。オヤジ帰国するとの電報がロンドンから届いたのだ。6月に入るとオジキも顔を出すようになり、会社の雰囲気がビリっと締まり、以前のように社内のあちこちで持論をまくしたて活発に議論する社員が出没し、この会社らしい喧噪な空気が戻ってきた。オヤジとオジキのいない会社は、普通の会社みたいで居心地が悪かったという社員は少数派ではなかったらしい。

 オヤジは、大量のバイク部品を土産がわりに持ちかえった。空港でオヤジを出迎えたオジキは「もう大丈夫だ」と告げた。オジキの言葉にホッとしたような顔したオヤジは「そうか」といって、オジキにネジを渡した。
「なんだ、これ?」それはオジキがみたことのない、日本で使用されているものとは違っていた。
「イギリスの工場に落ちていたネジだ。十字に溝が切ってあるだろう。溝をそうやって切っておいて機械で締める。……世界との差は大きいなぁ……」自信家のオヤジとは思えないほど控え目で謙虚な言葉だった。
「そうか」とオジキは答えた。「でも、戦うんだろ」
「当たり前さ」オヤジは、かっかっと笑った。

ソウちゃんとタケちゃんの夢2

 会社のただならぬ様子にオヤジも気づいていたが、経営に関して何もオジキに注文を付けなかった。「任せるといった以上、潰れようと無一文になろうとその結果を受け入れるのが筋だ。」といって、エンジン・トラブルの原因追及や商品の改良だけにかかりっきりだった。

 会社が倒産の瀬戸際に追い込まれ、眠れぬ夜を2週間ばかり続けたオジキは、腹を決めた。ウチの会社が日本の未来とともにあり世界が必要とするならば道は開ける。できることを精一杯やってみよう、と。

 従業員にも会社が危ないとのうわさが届き、現場に重い空気が漂い始めたころ、オジキはすべての工場に出向いて、全組合員を集めて告げた。
「売上が回復するまで生産ラインを一部休止する。その間、申し訳ないが給料を減額させてほしい。もし、この提案を組合が受け入れてくれなければ、会社の存続はままならなくなる。」組合員の予想を上回る単純かつ率直すぎるオジキの言葉に殆どのものは色を失った。
「売上が回復する見込みはあるのか」一人の組合員が青ざめた顔の震えた声でオジキに尋ねた。オジキはやや上を向いて一息いれてから力強い言葉で答えた。
「必ず回復する。」そしてオジキは言葉をつづけた「退職したいものは申し出てくれ。君たちは会社の財産であると同時に日本の財産だ。一時的とはいえ無為徒食の徒のような境遇に甘んじるより、日本を復興させるため別な場所で働くことを望むのであれば、それを阻むことは経営者たる者のとるべき道ではない。今回の会社の危機の根本は、経営者たる我々の見通しが甘かったことにある。社会環境の変化を予測できなかった経営者の失敗であり、国の未来を担う君たちに責任はない。我々の失敗を許してくれとはいわない。ただ、もう一度信頼するチャンスをくれるのであれば、全力でそれにこたえる。」会場は静まりかえった。組合がオジキの提案を断れば会社の存続は危ういものになる。会社の未来が組合に委ねられたという事実の重さが組合員を凍らせた。オジキにとって沈黙の時間は無限とも思えた筈だ。

 オジキの正面に座り、最前列でみつめていた労働組合の代表者が目を瞑った。長い深呼吸してから目を開き、まっすぐオジキの目を見すえた。そして頷き、両手を合わせて沈黙を破る音を響かせた。オジキの言葉に対して信任する意志を示した拍手は、瞬く間に会場全体に広がった。そこにいた全従業員はオジキを信じることに同意したのだ。オジキは震える声で「ありがとう」といった。


 組合の了承をとりつけた後は、オジキは部品を収めてくれる会社との交渉を開始した。関連会社を一同に集めて、これまた財務の状況を包み隠さず話してから、部品納入の継続と支払い期限の先延ばしを願い出て、また手形を振り出さないことについて理解を求めた。
「身勝手な言い分だとは重々承知しております。しかし、ここに至ってはここに集まってくれた皆様の協力なしには弊社の存続はあり得ません。この会社が日本の復興に必要だと思って下さるのなら、この会社を助けてください」と。代金の支払いも満足にできない会社は、見捨てられても当然であったが、オジキの裏表のない言葉に多く会社が要求をそのままのんだ。

 そしてオジキは、銀行にも正直に財務の状況を話した。銀行の担当者からは「なんでそんな高い工作機械を買ったんだ、身の丈を弁えなかった失敗はないかという指摘に「仮に会社がつぶれても、工作機械は日本に残る。この機械が日本の成長を助けて、結果的に国民が幸せになるのなら、失敗ではありません」と答えた。そして「世界一を目指す我々には必要な機械だから、買いました。今は支払いに事欠くちっぽけな会社ですが、御行の助けでこの窮状をしのぐことができたら、十年後、わが社はエンブレムともなっている翼とともに世界に羽ばたいていることでしょう。」と眼に力を込めて訴えた。

 銀行の担当者は町工場に毛の生えたような会社の専務から口から出た世界一との言葉に驚いた、そして笑い出した。「会社が大きくなったら返すから融資してくれという申し出はいくらでもあったが、世界一になるから金を貸してくれというのは初めてですよ」と追加融資をその場で決めてくれた。

 オジキが金策に奔走していた頃、オヤジはエンジン・トラブルの原因が燃料を送り込む気化器にあることを突き止め、問題の収拾に目途をつけることに成功した。社内にいろいろと意見もあったが、オヤジはリコールを通産省に届け出ることに決めた。商品に欠陥があった会社として世間の評価が一時的に下がり、改修の費用も大きくなるが世界一になるメーカーが些細な過誤すら認めずもみ消すような真似はできないということで下した決断だった。リコールに1億円程度が見込まれた過誤を些細と言い切るオヤジは、どこか頭のネジが緩んでいると会社では噂したが、オジキがわたりをつけた銀行の追加融資でまかなうことができた。会社を取り巻いた二重、三重の危機からの脱出口が見え始めたころ、オジキはオヤジを赤ちょうちんに誘った。

ソウちゃんとタケちゃんの夢1

「ソウちゃん、マン島に行って来いよ」
「タケちゃん、何言ってるんだ、こんな時に」
ソウちゃんと呼ばれた社長は、差し出された銚子を猪口で受けながら、ふられた話を軽く流そうとしたが専務のタケちゃんはもう一度、マン島を口にした。「こんな時だからいっているんだよ」

 口調こそ柔らかかったが、専務の分厚い眼鏡レンズの奥には仕事の時と寸分も変わらない厳しいまなざしがあった。
昭和29年3月、自社製のオートバイを生産していた社員数約500名の会社の社長と専務が東京本社からほど近い場末の赤ちょうちんで飲んでいた。社員からはオヤジとオジキと呼ばれていた二人は、互いをソウちゃん、タケちゃんと呼びあった。

 二人のあいだでマン島といえば、それは毎年行われる世界グランプリ・バイクレース、マン島ツーリング・トロフィーを意味していた。町工場に毛が生えたような会社だが、いつか世界に打って出ると、二人はいつも口にしていた。だから社長のオヤジに専務のオジキが、世界グランプリへの参加の下見をかねたマン島のレース視察を提案するのも当たり前といえるのだが、提案した時期が当たり前ではなかった。オヤジがこんな時といったのも無理のない話で、会社は2週間前に設立以来の最大の危機を迎えていた。

 太平洋戦争終戦直後の昭和21年、5人の社員とともに浜松で始めたオヤジの商売、エンジン付きの自転車の製造と販売はおおむね好調だった。ときたま、トラブルにも見舞われたがオヤジの腕と商売の狙いは確かで売り上げは順調に伸び、工場も徐々に大きくなった。地方はもちろん東京でも鉄道やバスの他に交通手段を持たなかった庶民にエンジン付きの自転車は日常の足として重宝された。

 ほぼ独学で身に着けたものであるがオヤジの技術は一流といってよく、製品の故障も少なかったことで評判は悪くなかったが、最初の二、三年のうちは会社の売り上げに見合うだけの儲けはなかった。問屋へのあいさつ回りや金の回収することに関して、上手い経営者の部類に入らなかったオヤジは、商売で大きな穴を開けて工場そっちのけで金策に走り回ることが半年に一度や二度はあった。オヤジは三十路が見えたころに知り合いの口利きで浜松の高専に聴講生としてもぐりこんだこともあるらしいが、「小学校卒にそんなことは分かるか」が口癖だった。尋常小学校卒がすべからくそうなのか知らないが、オヤジはどんぶり勘定を改めようとせず、月末や決算期にオヤジの機嫌が悪くなるのは会社の恒例行事だった。

 そんなオヤジをみるに見かねて、一回りは違う高専の同級生を名乗る人物がオジキを紹介した。挨拶に来たオジキは、初対面で「金勘定は得意だから任せてくれるなら、アンタがモノづくりだけをやっていけるようにしよう」と単純きわまりない役割分担を提案した。会社の説明もろくにしない、訊かないうちにする話ではないのだが、オヤジは小さく頷いて、小さな巾着を差し出した。オジキが中を改めると判子が入っていた。普段、驚いた顔など見せたことがないオジキもこれには驚いたらしい。「実印だ、よろしく頼むよ」とオヤジはゴツゴツした右手を差し出して握手を求めた。

 初対面から1週間後、新しくオジキが会社に加わった。それから1か月もたたずに会社の経理は全てオジキが仕切るようになった。オヤジもそうだがオジキも理論より行動の人だった。オジキは売り上げを確実に回収できるように商売のやり方を変えた。すると会社はたちまちのうちに金回りが改善し、急速な成長を開始した。オジキは振り出した手形を決済するまでの時間を逆算して、回収した売上金をぎりぎりまで設備投資に回して工場を拡大した。はたからみると危なっかしくて見てられないような商売だったが、オジキなりに勝算はあった。

 軍の払い下げだった小型エンジンの在庫が底をつくとオヤジが設計から手掛けたエンジンで自社製のオートバイを売り出した。会社の規模はまたたくまに10倍以上になった。町工場から脱した会社にも労働組合が結成された。アカが嫌いだったオヤジはいろいろと気をもんだが、オジキはやっと会社らしくなったと喜んだ。まったくの余談だが、新米の社員は血気にはやるオヤジにスパナで整備や製造のイロハを叩き込まれるのがウチの会社の常識というか通過儀礼みたいなものだったが、その話を聞きつけた社外の組合アドバイザーが「経営側の横暴を許すな」といって対立を煽ろうとした。だが「オヤジのスパナと拳固はいい教育になった」とほとんどの社員は取り合わなかったらしい。なんだかんだいってカミナリを理不尽に落とすが、オヤジの言っていることは筋が通っていてほとんどの社員はオヤジの男気とオジキの迫力ある強面を頼もしく感じていた。

 オジキが会社に加わってから、商売は右肩上がりになったが、それは朝鮮戦争による追い風を日本の産業界全体が受けていたことが大きかった。だから半島のドンパチが休戦になるとその勢いはみるみるなくなっていった。その頃、他社との競合も激しくなり、オートバイの性能で差別化を図ろうとしたウチの会社は大失敗をしでかした。新しく売り出したスクータータイプのバイクは馬力もあってスピードも出たが、重量があったため取り回しが悪く不評だった。そして排気量を増やしたスポーツタイプのマシンはエンジン音が大きく、エンジン・トラブルが頻発したことで評判が芳しくなく、会社の売り上げが想定していた額の半分にしか届かなかった。資本金600万円のちっぽけな会社が4億5千万円の工作機械を輸入したら売上が落ちて利益が出なくなった時期が、おやじのいう”こんな時”だったのである。