矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還り皇国護らん

当時、二府・四十三県の一つであった沖縄県は、
まぎれもなくわが日本列島最南端の「本土・・・」なのだ。
われわれはよくそれを承知していながら、
あたかも「沖縄戦」は「本土決戦」ではなかったように両者を区別して考え勝ちである。
このことは、沖縄県民にとってはたまらなく不満であり不快であったに違いない。


(中略)


その中で真っ先に同胞の襟を正させたのは「ひめゆり部隊」という沖縄県立第一高女と、
沖縄県立師範女子部の乙女達の眼を蔽わせる犠牲であった。
その時、この「ひめゆり部隊」に信子、貞子という二人の愛嬢を捧げられ、
その悲しみにたえて「ひめゆりの塔」という供養塔を建立された金城和信さんが、
はるばる上京して我が家を訪ねて下さった。昭和二十五、六年頃であろうか。
金城さんは、二つの希いをもって上京されていた。
その一つは、沖縄の祖国復帰であることは云うまでもあるまい。
そして、もう一つは、すすんで祖国の難に赴いたこれら清純な青少年学徒の霊魂を
靖国神社に合祀して貰いたいということだった。
話を聞きながら私は何度か慟哭した。


(中略)


戦艦大和を含む第二艦隊の海上特攻隊は、あえてすすんで死地に突入した。
この凄まじい終戦への供物の意識が理解できるか否かは、
日本人がヨーロッパ文明の残滓に拝跪する植民地の民になきりっていたか否かを
判別してゆく歴史のパロメーターにろう。
とにかく彼らは、明日の日本人の誇りのために、明日の日本人の心の底に
大和魂を贈り残し、その魂によって再起を希うよりほかのにないと見て、
すすんでわが身を供物に捧げたていったのだ。


「小説太平洋戦争」山岡荘八

6月23日は、沖縄戦慰霊の日である。
この日をもって沖縄防衛の任にあたっていた第三十二軍司令官牛島満中将が自決し
組織的戦闘は終了したが
島内の各地で散発的な戦闘が展開され、沖縄戦は実質8月28日まで続いた。
作家の山岡荘八氏は、戦後沖縄を訪れ
死後大将の位が送られ陸軍最期の大将となった牛島中将について語るほとんどの人が
眼を赤くしながら、高潔な人格と温容ににじむ徳を讃えていたと記している。


しかし、自分が沖縄を訪れた平成4年
沖縄県民かく戦かえり」と名言を残した海軍の太田少将を讃える声はあっても
牛島大将へは誹謗中傷の類いが溢れて、将軍を肯定する声は皆無に等しかった。



ひめゆり入試問題:青学高等部長らが元学徒訪れ謝罪へ

この問題についてははむはむさんが詳しく書いているので、省略するが
思うに沖縄と本土を隔てているのは
そうして、沖縄県民をただの被害者にしたてて、忠烈無比な軍人を貶め、
些細な問題をヒステリックに騒ぎたてる輩ではないだろうか。


焼け跡から再起したもののヨーロッパ文明の残滓に拝跪する植民地の民どころか、
中国韓国を無条件に追従する人間が跋扈する今の日本を
還られた先人の魂魄が見ておられると思えば、大変心苦しいものがある。
臆病にして浅学非力な自分ごときが、大和魂云々を語るなどおこがましいが
彼らの勇壮なる戦いを民族の誇りとして語り継ぎたい。




※タイトルの"矢弾尽き・・・"は、牛島大将の辞世の句







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小説太平洋戦争(8) (山岡荘八歴史文庫)

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