大和の燃料は本当に片道だったか?

帝国海軍部隊は陸軍と協力、沖縄周辺の敵艦隊を撃滅せんとす。皇国の興廃はまさにこの一挙にあり。ここに海軍を結集して、果敢な突入作戦を命じたるは、帝国海軍の栄光を千載に残さんとするほかならず、各隊は殊死奮戦、敵艦隊をこのところに殲滅し、もって皇国の無窮の礎を確立すべし
連合艦隊司令長官 豊田副武大将


昨日見た映画では大和は片道燃料しか積まなかったことになっていた。
だが出発数時間前に員数外*1の燃料を積んで往復する分は
積載したいた誰かの書籍で読んだ記憶がある。
そう思って検索したところ以下のような文章を見つけた
http://www.biwa.ne.jp/~yamato/kobayashi.htm

本作戦命令を第二艦隊司令長官伊藤整一中将に伝達の為、 聯合艦隊参謀長草鹿竜之介中将が軍艦大和に行かれることになったので、 私は補給関係の援助をする為に是非一緒に行かせてほしいと随行をお願いし、 艦隊付属の飛行艇で瀬戸内海の柱島に行き、 4月2日停泊中の軍艦大和に乗艦しました。大和乗艦後、直ちに幕僚室に行き、 第二艦隊機関参謀松岡茂大佐に会い、 『今回の出撃の為の燃料補給は聯合艦隊参謀である小林大佐が直接行うから一任してほしい』 と告げ、その了解をとりつけた後、直ちに高速艇を用意して呉鎮守府に行き、 幕僚室に居る呉鎮守府機関参謀今井和夫中佐に会いました。


「おい、今井君。今貴様の所では帳簿外の重油は幾許あるか。 私は元海軍省軍需局に勤務して居た時、出撃準備計画を担当して居り、 又軍令部参謀もして居たので、全海軍の重油タンクの状況はよく知って居る。 呉鎮守府傘下は一番重油タンクが多いので、相当タンク内に残って居る筈だ。 これらの未報告の帳簿外の重油が4〜5万屯はあると思っているがどうか。 無理かも知れないが、この帳簿外の重油の一部を俺に呉れ。」
「小林さん、一体どうしたのですか。藪から棒のお話、訳がよく解りません。 勿論帳簿外の重油は相当量残って居ります。事情を説明して下さい。」と云う次第で、私は大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄突入作戦の決定迄の経緯を詳しく説明し、 「たとえ生還の算少ないとは云え、 燃料は片道分だけしか渡さないと云うことは武人の情けにあらず。往復の燃料を搭載して快く出撃せしめたい。今回無理を云って聯合艦隊参謀長に随行して来た私の目的は、唯この一点だけである。 聯合艦隊参謀と云う公職で頼むのではなく、小林大佐一個人の懇願なのだ。」と話たる所、今井参謀も之を快諾す。


実施方法は次の通りにする。
1 各艦に往復燃料を補給する。然し聯合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されているので、片道分は帳簿外燃料より補給す。(タンクの底の重油は在庫として報告してない。之等を手押しポンプで集めれば、沢山となる。これが帳簿外重油
2 補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告(求められた時のみ)には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした
依って直ぐ今井参謀と一緒に上司である呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、 参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本少将に報告して承認を得る。 直ちに高速艇に飛び乗り、柱島停泊中の大和の帰艦し、 松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本祐二大佐に詳細報告せる所、 非常に喜んでもらへえた。今井参謀は直ちに呉海軍軍需部長に命令を出し、 各艦に重油搭載を命ず。重油搭載は呉及び徳山(駆逐艦の大部)で行われましたが、 各艦の重油搭載量は次の通りです。
旗艦大和4000屯
第二水雷戦隊旗艦矢矧1300屯
第4駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊 満載
合計10500屯


第二艦隊(大和、矢矧、駆逐艦8隻)は、昭和20年4月6日1520、 瀬戸内出撃し、豊後水道を通り鹿児島沖を西行し、 次で南下し沖縄沖に向かったのですが、4月6日21時、 豊後水道で敵潜水艦に発見され、その後敵機の追従を受け、 4月7日正午頃から敵飛行機の大攻撃を受け、部隊の殆どは壊滅致しました。
本作戦に於いて駆逐艦が4隻生還している。駆逐艦はタンクの容量が少なく、 航続距離も出ない艦であるが、無事生還して居る。 片道分の重油では生還は出来ない。往復燃料を搭載したことの何よりの証拠である。 これは正式に残っている文書は全然なく、戦後刊行物、 幾多の戦記書に『片道航海』『無情の海軍』との謗りを受けておりますが、 事実は以上の通りであります。之が証人たる今井参謀及び松岡参謀も今は世に居ない。 生き残れる唯一の証人として私が以上の事実を申し上げた次第であります。


連合艦隊参謀海軍大佐小林儀作氏の手記より


この手記の記すところが正しいのであれば、万に一の生還を期して
大和には往復燃料を積んでいたことになる。
ただ、仮にそうだとしても水上特攻を連合艦隊が下令したのは事実である。
この命令の発令を巡ってかなり不透明な事実があり
歴史小説山岡荘八氏は以下のように疑問を呈している。

この特攻を連絡された時に第32軍の牛島軍司令官は、時期尚早と見てこれが中心を打電している。制空権も制海権もない海上へ、いかにすぐれた戦艦でも、裸で乗り出して無事に目的地へつけるはずのものでない。これは牛島司令官ならずとも、中止を要請するのが軍人としての常識であった。


しかも出撃は結構された。何ゆえであったろうか?実はこの出撃が決定する直前まで、これを指揮していた第2艦隊司令長官伊藤整一中将もまた、こうした出撃を考えていなかったのだと云っている。こうした事実を人々は知っているであろうか。伊藤長官ばかりでない。この決定を第2艦隊に告げに行ったのは、当時鹿屋に来ていた連合艦隊参謀長草鹿竜之介中将であったが、この草鹿中将もまた、その著書「連合艦隊」の中で次のようにどろきを述べているのだ。
「(中略)私はいずれ最後は覚悟しても悔いなき死に場所を得させ、少しでも意義あるとろこをと思って熟慮を続けていた際であった。ところが私の留守中に、これを斬り込ますことになった……(後略)」
つまり、連合艦隊では参謀長の草鹿中将が留守の間にこれを決定し、草鹿参謀長はもこれもこうした斬り込みなど、考えていなかった第2艦隊の伊藤長官に伝達しにいったのだ。


「小説太平洋戦争」山岡荘八

しかし、氏も「誰がこの作戦を決定したか」という結論を導き出すことを得ず
豊田連合艦隊司令長官、草鹿参謀長、及川軍令部総長、小沢軍令次長ら
海軍トップが言い続けた嘘の産物ではないかと推測しながらも、
この攻撃を否定することはせず
"戦艦大和の出撃は、実は一見無謀な出撃に似て、その実、
終戦とその後の民族復興の祭壇に供える、帝国海軍最後の、悲しい供物であった"
と述べている。


映画の案内には無意味な作戦と紹介され
この作戦を命令した軍人らを冷酷な非人間のように罵る言辞も多く聞く。
だがこの戦争とは元から勝利は有り得ず、負けると知りながらも始めた戦いであり
3年余にわたり、日本民族としての矜恃を示したところに意義があったのだと信じる。
そして大和で乗り水漬く屍となられた方々を始めとする皇軍将兵の多くの死は
決して無意味でなはく、むしろ民族の誇りとして語りつぐべき壮挙であり
彼らが尊い命を国家のために擲ったからこそ、
静かなる終戦と戦後の復興があったのだと私は思う。





小説太平洋戦争(8) (山岡荘八歴史文庫)

小説太平洋戦争(8) (山岡荘八歴史文庫)

*1:帳簿につけられてない物資のこと