遙かなる海軍精神

海軍主計大尉、小泉信吉は1942年10月22日、南太平洋上の凄烈な戦闘で亡くなった。
慶応義塾を卒業し、銀行に勤務すること4か月海軍軍人となって1年2か月、
父母と祖母と妹2人を残して逝った。25歳だった。
海軍に憧れること痛切なものがあった。22歳の夏こう書いた。<十歳位の時から海軍士官が理想になりました。
 落日の下に今や沈まんとする艦のブリッジに立ち、艦と運命を共にする艦長を我が身になぞらえたり
 幕僚を従えて海戦に臨む司令長官に未来の我身を描いたりして居ました>


当時の平均的な青年の姿だったかもしれない。出征にあたり父は手紙を書いて息子に渡した。<若し生まれ替わって妻を択べといわれたら、幾度でも君のお母様を択ぶ。
 同様に、若しわが子を択べことができるなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。
 今、国の存亡を賭して戦う日は来た。
 お祖父様の孫らしく、吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。>


最愛の子の死を悼み、父の慶応義塾長、小泉信三は「海軍主計大尉小泉信吉」にまとめた。
彼は、彼なりに、乏しい力は乏しいままに、その職責を果たしたであろう。
彼は「剛胆な勇士」でも「大悟せる哲人」でもないから、
決戦において平気ではありえなかっただろう。
興奮もしたであろう。あわてもしたかもしれない。
しかし忠烈なる艦長の指揮の下に、彼として力の限りを尽くしたであろう。そう鎮魂した。


(中略)


1950年10月16日、日露戦争後のポーツマス講和条約に出席した全権、小村寿太郎は、
やつれ果てた姿で帰国した。困難を極めた交渉だった。
実情を知らない国民は、一銭の償金を取れなかった憤激、焼き打ち事件も起きた。
横浜港から宮中までの間の新橋駅で小村は暗殺されるだろうという憶測も飛び交った。
その新橋駅のプラットフォームに汽車が滑り込んだ時、
海軍大将の軍服に身を包んだ海軍大臣山本権兵衛は、桂首相ともとにデッキに駆け寄った。
二人は小村の両脇にぴたり寄り添った。


江藤淳「海は甦る」は、その時の模様をこう活写している。<のっしのっしと巨?を運ぶ権兵衛の虎の目は、刺客があれば射すくめようとばかりに炯々と輝いていた。
 しかし、への字に結ばれた唇には、かつてない深い悲しみの色が潜んでいた。>
小村が襲われた時には、身を挺しても共に斃れるることを覚悟したのである。
小泉信吉が崇拝する人物は福沢諭吉山本権兵衛だったという。


相沢忠雄という海軍主計大尉がいた。旧制武蔵高校では、後の首相宮沢喜一と並び称された俊才だった。
乗艦がフィリピン沖で米潜水艦に撃沈された時、
たまたま赴任途中で乗っていた土田国保(後の警視総監)に、
俺は泳げるから自分用の浮輪を使ってくれと告げ、艦長と艦橋に並んで従容として艦と運命をともにした。
土田もまた、泳げるからと下士官に回し、泳いだあげく味方艦船から救助された。
近藤道生「国誤りたもうことなかれ」に描かれている。


戦艦大和が燃料片道の沖縄突入作戦に出動を決定した時、
青年士官の間で特攻死の意義づけをめぐって激しい論争が起きた。
死生論議の混迷を断ち切ったのは、若手士官を束ねる立場の哨戒長臼淵磐大尉の言葉だったと、
吉田満戦艦大和ノ最期」にある。


「日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、
 本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。俺たちはその先導になるのだ。
 日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」



吉田満は「海軍という世界」の中で、帝国海軍の魅力について、懐が深かったこと、
矛盾をそのまま呑み込むことをよしとし、そのから独特の緊張と雅気と清涼感が生まれていた指摘、
次のように書いている。<海はたとえようもなく大きく、深く、かつ魅力的である。
 海上勤務の第一の任務は、敵と正対することでなく、海と正面から対決することである>


旧海軍に対し、暗部に目をふさぎ、いだすらに賛美することは慎まなければならない。
海上自衛隊との安易な類推も避けなければならない。
そう思いつつも、自衛隊員の心の中核にあるべきものは何かを考えさせられてしまう。



平成20年3月8日(土)読売新聞朝刊15面「五郎ワールド」


8日の土曜日、読売新聞に橋本五郎氏による上記の一文が掲載されていた。
旧海軍や「なだしお」の時に海に飛び込んだ乗り組み員の挿話に触れて
今回の海上自衛隊イージス艦と漁船衝突事件について
心中を綴っている。


今回の事件について、
海上自衛隊にのみならず防衛省全体に統率の乱れがあったと指摘されている。
個人として非常に残念なことである。


失われであろう二人の命の冥福を期すならば
二人の尊い命に報いるならば、防衛省は襟を正して
国を守るということの重みを噛みしめて
ゼロからの再生を誓うべきではないかと個人的に思う。