It's not about the bike〜病気を抱える人とそうでない人へ

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく




死の淵から生還するのみならず、
世界最高峰の自転車レースに優勝したことを
奇跡と云わずして、何を奇跡というのだろうか。
昨日、本屋で「だだマイヨ・ジョーヌのためでなく」という本を立ち読みした。


複雑な家庭に育ったランス・アームストングは、高校卒業後自転車のレーサーとなる。
典型的なテキサス人であった彼は
「がむしゃら」とあだ名されるほど、雄牛のようにひたすらペダルを漕いでいた。
そんな戦い方をしていた彼を、ナショナル・チームの監督クリスは
「君は、ツールを走れる選手だ。そんな戦い方はトップレベルでは通用しない」
と彼の潜在能力に気づき、彼の才能を徐々に引き出していく。
彼はヨーロッパの慣習に戸惑いながらも、忍耐を学び着実に実績をつみ
自転車ロード・レースの最高峰”ツール・ド・フランス”で
93年と95年にステージ優勝を果たし、
レースチーム・コフィディスと250万ドルの2年契約を結ぶに至った。
将来を誓った恋人。有名チームとの契約。
まさにこの世の春を謳歌しているときに、
アームストロングは地獄の底にたたき落とされる。
ある日体の不調を訴えたところ、睾丸に癌が発見さたのである。
癌は肺や脳にまで転移し末期の状態であった。
脳の切開手術、激しい副作用を伴う化学治療。
チーム・コフィディスは、そのランスの変わり果てた姿に、
再起はおろか生存も無理と判断し契約内容の変更を一方的に告げる。
1年余にわたる闘病生活の結果、彼は生還するだが
病院での化学治療は彼の鍛えた肉体と精神を徹底的に粉砕していた、
男性機能の喪失も含めて。


彼は再発の恐怖と戦いながら自転車を始めるが
ランスと契約を結ぶチームはどこにもなかった。
代理人や新しい恋人と衝突と和解を繰り返しながら、焦燥する日々が続ける。
代理人の必死の奔走により、
アメリカの新興チーム・USポスタルとライダー契約を結ぶのだが、
それは、お世辞にも復活が期待されているとは言えない契約内容だった。
人生の残り時間を自転車に使うことについての疑問を感じ悩みながらも
彼は、かつての情熱と力を取り戻し、
栄光のツール・ド・フランスのステージに再び舞い戻ることに成功する。
99年、彼のチーム・USポスタルを優勝候補に挙げる人間は、
かつてのツールの覇者インデュラインただ一人だった。
プロローグをトップタイムで制した彼は、
初めてマイヨ・ジョーヌ(黄色のジャージ)に袖を通す。
誰もが3600Kmの20日間のレースに耐えられないと予想する中、
アルプス、ピレネーと険しい山脈ステージをこなし
栄光のマイヨ・ジョーヌを手放すことなく
アメリカ人として二人目のツールの覇者となる。
フランスのみならず世界中の人々が驚愕した。


彼が優勝した時のコメントは
「このマイヨ・ジョーヌで僕のものは、
 この中央のファスナーの部分だけだ。
 袖も肩もその他の全てはチームメイトのものだ。」
だった。
そこには、自分だけで勝利をもぎ取ろうとしていた「がむしゃら」ではなく
自分の家族、チームメイト、世界中の癌患者のために戦う男がいた。


彼はツール優勝後、癌の治療を担当した医師の処をたずねて、
自分の生存確立どれくらいだったか訊いた。
「20%? 10%? 5%?」とアームストロングが数字を読み上げるが
医者は一向に首を縦に振らない。
医師がようやく首を縦に振ったのは3%と彼が言ったときだった。
まさに奇跡の物語である。