なぜ五輪を呼びたいのか


産経新聞の記者がリレーしているコラム「土日に書く」が
4月から「日曜に書く」に衣替えした。
このコラムは以前からブログで度々紹介しているが
秀逸な記事が多い。


自分の知らないこの日本のどこかで
健気にそして真摯に生きている人たちを
取り上げた記事に涙腺が緩むことがしばしばある。
涙もろくなったと言われればそれまでだが
心あらわれるような物語に触れことができるのは
人生の至福の一つだと思う。


http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130407/oth13040703060000-n1.htm


論説委員・別府育郎 なぜ五輪を呼びたいのか
2013.4.7 03:05


◆3・11


佐藤真海(まみ)(サントリーホールディングス)は東京にいた。激しい揺れ。ここでこんなに揺れるなら、震源地はどれほど大変だろう。
やがてテレビが、津波の第1波を映し出した。故郷気仙沼が海にのみ込まれていく。鳥肌が立った。


一月後、初めて気仙沼に帰った。町に乗り上げた大型漁船。津波の到達点を刻む残酷な境界線。言葉も涙も出なかった。吐き気がした。ただ海は、静かだった。生活の一部だった漁港の海はいつも通り、チャプチャプ、キラキラ。あの日、一瞬化けただけの海。
海を嫌いにはなれない。ならない。子供のころは意識しなかったが、名前にも海がある。


◆笑顔


応援部のチアリーダーとして学生生活を送っていた早大2年の夏、右の足首が痛んだ。
大学病院を紹介されがんセンターを勧められた。診断は「骨肉腫」。右足の切断は避けられないと告げられた。


20歳、手術で右足の膝から下をなくした。髪も抜けた。ないはずの右足がいつまでも痛む。「幻肢痛(げんしつう)」というのだという。泣いてばかりいた。なぜ私なのだろう。地獄だと思った。家族、患者仲間、看護師、友人ら、多くの人が支えてくれた。少し元気になったり、また落ち込んだり。そしてスポーツ義足と出合った。


よたよたと、それでも初めてトラックを走った爽快感。スポーツを心から楽しいと思えたのは、このときからだった。彼女は走り幅跳びアテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場した日本のトップアスリートである。


辛い記憶の多い、本当はもっとずっと長い話を、彼女はほんの一瞬涙ぐんだだけで、ほとんどの時間をとびきりの笑顔で語り続けた。誰かが少し離れて見ていたら、どんな楽しい話をしているのかと思ったろう。
「今が本当に楽しいんです。普通の人生に戻れるなら戻りたいと思ったこともあるけど、今が一番いい。義足で走ることで世界と勝負し、いろいろな人と関われるようになった。スランプも含めて充実しています」


2020年オリンピック・パラリンピックを招致している東京に3月、国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員らがやってきた。プレゼンテーションでは佐藤真海もスピーチを行った。



◆プレゼンテーション


リハーサルでは招致委員会が用意した原稿を読んだが、本番では被災地の故郷気仙沼のことや、パラリンピアンとしての自らのストーリーを自分の言葉で書き加え、語った。


最前列で涙を流していたのは招致委の幹部だった。翌日、評価委のメンバーで、五輪3大会で4つの銀メダルを獲得したスプリンター、フランク・フレデリクス(ナミビア)が「昨日のスピーチは素晴らしかった」と声をかけてくれた。


なぜ五輪を呼びたいのか。
「被災地を回り、マイナスをバネにして困難を克服するために、目標を持つことの大切さを伝えるために、パラリンピックは力になれると思いました。昨夏のロンドンはパーフェクトな大会でした。観衆は障害者アスリートを見にくるのではなく、スポーツに興奮していた。ロンドンが最高まで持っていってくれた大会を東京で、日本で引き継ぎたい。そのためには街づくりや意識改革など、やらなければならないことがたくさんある。それも、スポーツからなら入りやすいと思うんです」


プレゼンで大役を務めた後、彼女はアラブ首長国連邦(UAE)に遠征し、シーズン初めだというのに自己ベストを更新する4メートル86を跳んだ。


「5メートルが見えてきたかな」


おそらく彼女は、まだまだ跳べる。もっと跳べる。(べっぷ いくろう)