岸本元名護市長の願い


http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130331/plc13033103110007-n1.htm

ニューヨーク駐在編集委員・松浦肇 岸本元名護市長の願い
2013.3.31 03:11 [土・日曜日に書く

 
酒豪だった。東京での集合場所は赤坂の居酒屋。沖縄では行きつけの泡盛バーに連れて行かれた。げじげじまゆ毛に、大きな瞳。毎年春になると、2006年3月に亡くなった、岸本建男・元名護市長を思いだす。政府と条件闘争していた岸本氏は、日米安全保障のカギを握る政治家だった。


◆金融特区で自立発展

岸本氏は条件闘争の肝として、金融特区構想を政府に求めていた。本島北部地域に設立した金融会社への法人税や取引課税を軽減することで、名護市をオフショア市場に変身させる案である。「沖合でジュゴンが泳ぐ自然豊かなヤンバルの地でなぜ?」。質問すると、笑みをたたえて答えてくれた。「魚より釣り具が欲しいのですよ」


北部地域の若者は高校を卒業すると本土に就職するが、都会の世知辛さに疲れてそのうち帰郷する。だが、地元には農業や建設といった零細な就職先しかない。


沖縄は公共事業が県経済に占める割合が全国有数の高さで、県民1人当たりの年間所得が低い。「“ザル経済”から脱却するためには、知的社会資本に投資することで、地元大学の活性化や人材訓練といった教育との相乗効果が必要です」。目先の「魚」(日銭)よりも、自立して出漁できる「釣り具」(経済発展モデル)を求めたのである。


岸本氏が視察して目標にすえたのが、アイルランド、ダブリン市にある国際金融サービスセンター(IFSC)だった。これといった産業のないアイルランドは移民が流出し、1980年代は不況に悩んでいた。そこで考え付いたのが金融特区である。

 
◆基地受け入れの代償

 
名護市では金融に必要な高速通信用の海底ケーブル計画が進んでいた。移設する飛行場を軍民併用にして空の玄関にする壮大な絵も描いていた。「目指せ『小さな国際都市』ですよ」

 
大学卒業後に各国を放浪した岸本氏は、米国社会をつぶさに観察した。貧困地区を回った岸本氏が痛感したのは格差の現実で、本土と沖縄の関係をダブらせた。

 
岸本氏は、格差から脱却するためには、「自己責任の精神」を地元民が持つべきだと考えた。本音は「反対」だったが、受け入れに傾いたのは、名護市が「日本版ダブリン」に転生する経済独立の代償として考えていたからだ。


2002年、計画は前に進む。1972年の沖縄返還以来、本土と沖縄の格差是正を目的に10年ごとに沖縄振興開発特別措置法(振興法)が制定されてきたが、2002年からの第4次振興法に金融特区が加わった。自民党の税調族に金融特区構想を認知させたのだ。


 ◆安保を犠牲にした官僚

だが、しばらくして会った岸本氏の顔は険しかった。「やられましたね」。一国二制度を嫌う内閣府財務省により、特区構想が骨抜きにされたという。岸本氏は官僚の実名を挙げて怒っていた。

 
「常時従業員数が20人以上」。金融特区で優遇税制を受けるための雇用義務条項だ。オフショア金融に20人以上の従業員は非現実的。コスト高となる。官僚の策謀は効果てきめんで、再保険市場やアジア取引所などの大型構想は、どれも立ち消えになった。

 
最後に岸本氏に会ったとき、「辺野古への受け入れは実現しますか」とたずねた。
「無理でしょうねえ」。返事ははっきりしていた。金融特区が順調に発展すれば、基地受け入れ条件のハードルを下げるつもりだったのだが、骨抜き条項で翻意した。

 
岸本氏が亡くなる直前に決まった岸本氏の後継者は、「沿岸案反対」を訴えて当選した。役人の狭量で日米安保が犠牲となり、北部地域振興予算は従来どおりの土木工事に吸い込まれている。

 
折しもオフショア市場で知られるキプロスが危機にある。全くの別物なのに資金洗浄と税務を混同した、偽善面のオフショア悪玉論が湧いて出てくる前に、岸本氏との会話を紹介することにした。
(一部略)


既得権益の維持やゴネ得ねらいの鵺のような対応
普天間の迷走はいつまで続くのか。


前述した故岸本氏の構想が、大風呂敷で終わったか、実現したか
その結末を想像したところで
今となっては出し遅れの証文と大差ないが
その着眼は、極めて鋭く、
地域振興という名の飴で骨まで溶けた沖縄経済で
その発想は異質ですらある。



貧しいことは恥ではない。
貧しさに甘えることは恥である。