コクリツと15メートル21

国立競技場の取り壊しを飾るために
プルーインバルスが東京上空を飛んだ。
その直前、
青と白にカラーリングされた飛行機みたさに
飛行場のフェンス際まで子供を連れていった。


木村和司のFKが決まるも韓国に破れて
Wカップの夢が消えた試合や
カール・ルイスが100mの世界記録を樹立した大会など
自分が覚えているだけでも
両手にあまる感動が刻まれた会場が消えることに
いいようのない寂しさを感じた。


感傷にひたる自分を
やや滑稽に思いながら
的外れとは承知の上で
新しくできるスタジアムに想い馳せ
飛び立つ飛行機を見送った。




それから約一年半
新国立競技場の建設がここまで迷走するとは
想像できなかった。


大阪でガンバ大阪のスタジアムが
4万人規模とはサポーターのカンパで
200億円を越えない金額で建設された。


関係者の思惑や東京ゆえの制限もあるのだろうが
「何故?」という疑問が頭をもたげる。




【日曜に書く】論説委員・別府育郎 15メートル21、白いポールの行方(1/3ページ) - 産経ニュース

【日曜に書く】論説委員・別府育郎 15メートル21、白いポールの行方


 1964年10月18日の産経新聞朝刊1面には、大きく棒高跳びの写真が掲載されている。長い説明には、こうあった。


 《夜霧につつまれた国立競技場の空に、聖火があかあかと燃えていた。見ている方も祈りたい気持ちだった。非情に浮くバー。その高さは、際限なくあげられていくようにみえた。午後一時にはじまった棒高とび決勝は、よる十時をすぎてもまだ続く。選手たちの疲労が深まれば深まるほど、観衆の興奮はたかまっていった。人びとは九時間の死闘に心を奪われて、まばたきすることも忘れていた。5メートル10、最後のチャンス。ハンセン(米国)は、ゆっくりと、そのバーの上を舞った》


 ◆激闘の聖地


 東京五輪の名シーン。陸上・棒高跳びでハンセンがラインハルト(西独)との9時間7分に及ぶ死闘を制した瞬間だった。直前の16日にはソ連フルシチョフ首相が突如解任され、中国は初の核実験を強行した。「平和の祭典」は、そんなきな臭い世界情勢のなかで行われた。


 メーン会場の国立競技場にはさまざまなドラマがあった。


 男子100メートルはヘイズ(米国)が優勝し、準決勝では追い風参考ながら9秒9をマークした。マラソンではアベベエチオピア)が連覇を果たした。銅メダルの円谷幸吉はトラックでヒートリー(英国)に抜かれ、「国民の面前で抜かれて申し訳ない」と涙した。


 閉会式では94カ国の選手らが入り乱れ、日本選手団の旗手を務めた福井誠は外国選手に肩車されて場内をまわった。


 五輪後も国立競技場は、スポーツの聖地であり続けた。


 91年東京世界陸上走り幅跳びではマイク・パウエルカール・ルイス(ともに米国)と激闘を演じ、今も破られない8メートル95の世界記録で優勝した。ルイスが100メートルを制した9秒86も当時の世界記録だった。


 W杯が遠い夢だったころからサッカー日本代表の苦闘の舞台であり、クラブ世界一を欧州と南米で争ったトヨタカップの会場でもあった。満員の観衆で沸いたラグビー早明戦や、新日鉄釜石神戸製鋼7連覇の偉業もここで成し遂げられた。


 そのすべてを、一番間近のトラック第4コーナーの内側で、15メートル21の高みから見守り続けたのが、「国立の守護神」、真白き織田ポールだった。


 ◆織田幹雄


 織田幹雄は28年、アムステルダム五輪の三段跳びで優勝した日本人初の金メダリスト。31年には国立競技場の前身、明治神宮外苑競技場で、15メートル58の世界新(当時)も記録した。


 コーチもいず、外国選手の映像も手に入らなかった時代。織田は空中姿勢を試行錯誤するため川に向かって跳び、舞踊の所作を応用できないかと六代目尾上菊五郎の舞台に通った。


 その後も日本の陸上界、スポーツ界を牽引(けんいん)し、58年に国立競技場が開場するとともに、織田の偉業を記念して五輪優勝記録と同じ、15メートル21の高さのポールがフィールドに立てられた。


 98年12月、織田が93歳で亡くなると、国立競技場でお別れの会が営まれた。織田ポールには半旗が掲げられ、フィールドの砂場には15メートル58の世界記録地点に着地跡が掘られた。


 ◆遺産(レガシー)


 織田ポールは今、東京・西が丘の味の素ナショナルトレーニングセンターの陸上トレーニング場に立てられている。明日を目指す、陸上競技の後輩を見守るように。


 敷地に隣接する歩道橋上からも、はっきりと見える。ただそこに、観衆の姿はない。


 旧国立の解体とともに足場を失った織田ポールは昨年10月、西が丘に移設された。当初は、新国立競技場の完成とともに新たな聖地に立てられる予定だったと聞く。だが、建設計画白紙撤回の紆余(うよ)曲折を経て、新国立は2020年東京五輪後に観客席をトラック上に増設し、サッカーやラグビーの専用球技場とする案が有力となっている。


 そうなれば、織田ポールは帰るところをなくす。


 陸上競技場にあってこその織田ポールだ。遺産(レガシー)は、人々に語り継がれることに意味がある。語られるにふさわしい場所もある。


 旧国立競技場は正式名称を国立霞ケ丘陸上競技場といった。解体時には、新たな時代にふさわしい陸上競技場が建設されることが期待された。


 陸上関係者は今、大がかりな詐欺事件の被害者にでもなったような気分ではないか。