バーボンと競馬と横須賀と

まさに華麗な転身だった。英国ウェールズで、祖父の代からの騎手の家に生まれた。第二次大戦中は、馬の代わりに戦闘機を乗りこなして勇名をはせる。競馬界に復帰すると、障害競馬で全英チャンピオンとなり、エリザベス皇太后のお抱え騎手まで務めた。

 ▼引退後に書き始めた競馬ミステリーがなんと、世界的なベストセラーとなる。日本では、『本命』以来全作品を翻訳出版している早川書房から、先月43冊目の『拮抗』が出たばかりだ。そのディック・フランシス氏が、カリブ海の英領ケイマン諸島にある自宅で、89歳の生涯を終えた。

 ▼才能、運ともに恵まれた人だったが、何より理想的な奥さんに当たった。25歳のときに出会い、一目惚(ぼ)れしたというメアリ夫人は、大学で英仏文学を学んだ才媛(さいえん)だ。15歳で学校をやめたフランシス氏のつづりの間違いから、文章の構成まで手助けしていた。

 ▼氏の作品は、慣れ親しんだ競馬界の描写が優れているのはもちろん、コンピューターからワインまで、専門家が脱帽するほどの情報が書き込まれていることでも定評がある。こうした調査も、夫人の仕事だった。

 ▼芥川賞で兄弟合作の作品が候補作になり、話題になったばかりだ。ミステリーでは、いとこ同士のコンビだったエラリー・クイーンなどの例もある。フランシス氏も著者名を夫妻としたかったが、夫人が望まなかったらしい。

 ▼2000年に夫人と死別してから筆を折ったと思われていた氏が、6年後、今度は次男のフェリックス氏とのコンビで、復活を果たす。翻訳を待ちきれなくて、原書を読むようになったという、俳優の児玉清さんのような熱烈なファンをほっとさせたものだ。未翻訳の新作は、あとひとつあるきりだという。


彼と出会ったのは、二十年前
沢木耕太郎バーボンストリートだった。


イギリス競馬界の一流ジョッキーとして名を馳せながらも
グランドナショナルで本命の馬に乗り敗れた彼は
墓碑銘に"ナショナルに勝てなかった男"と刻まれることに抗うべく
ミステリー作家として"復活"を果たすー
そんな筋書きの話が紹介されていた。
彼の小説を手に取ったのは、それからしばらく後のことだった。


あらゆる困難に見舞われながらも
決して屈することなく、自己の信念を曲げない主人公
古典的な物語の構図でありながらも
四十を超える物語を紡げたのは
現代の人間が見失いがいがちな「正義」を
揺らぐことなく書き続けたからだと思う。


夫人を失った後、
再びペンをとる際に、選んだ主人公は
片腕を失い懊悩と失意の日々を送りながらも
勇気を友にどん底から立ち直った元ジョッキー・ジッドハレーだった。
自身の心境を準えたでろうことは想像に難くない。
今後も彼の活躍を期待していた者とすれば
ただ残念というより他はない。


競馬のジョッキーとしてだけでなく
ミステリー作家とし大成功を収め
全世界から作品を渇望された彼の墓碑銘には
なんという言葉がふさわしいだろうか。



フットボーラーとしては三流以下で
華麗な転身もままならぬ身としては
自分の墓碑銘以上に気になるところではある。


横須賀のギルド石屋・ニヤケ君と飲りたくなった。
もちろん、バーボンをやりながら
墓石の相談でもしよう。








バーボン・ストリート (新潮文庫)

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大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

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