私が訪れたときも、ひめゆりの塔には大きな献花台からこぼれ落ちるほどの花束が供えれているのに対し、ずゐせんの塔には一輪の花もなく、だいぶ前に誰かが供えたと思われる古ぼけたコンパクトが、ぼつとん置かれているだけだった。
「ひめゆりばかり有名になって、同じように戦場でなくなったずゐせん学徒のことは、誰も知らないし追悼もされない。それがずっと悲しくて、悔しくて
今月の文藝春秋には、ノンフィクション作家の梯久美子が
沖縄戦で散った首里高等女学校の学徒隊について
知られざる事実をルポした記事が掲載されていた。
ずゐせん学徒隊は、61名と数が少なく、また引率する教師もいなかったことから
その活動が戦後記録として残されていなかったという。
そして生き残りたる宮城巳知子らは副知事に、植樹祭で沖縄を訪れる天皇陛下に
ずゐせんの塔を見ていただきたいと嘆願した。
天皇陛下の御為と国の為に死ぬことが日本人の美徳として教えられ、 女性でも戦死したら靖国神社に神として祀られ、崇められると神事て疑わず…… <衛生兵とともに奮闘致しました。 生き証人は黙っていることができません。三十三名の代わりに声を大にして 『ずゐせん隊はかく戦えり』と叫びたいのであります>
宮城は、植樹祭で訪れた天皇陛下に招かれ、自作の琉歌を披露した。
そして、それを聞かれた陛下は後にその歌を要望され
ずゐせんの塔の前で頭を垂れられたと記事は伝えている。
誰たる恨みとて泣ちゅうが首里高女 戦恨みてぃる忍じいくねい 戦世忍じ弥勒世やとてぃ 泣ちゅる瑞泉救てぃたぼり
伝えなければならない歴史とは何か、
声を大にして叫ばなければならない史実とは何か、
私は、戦で散った御霊の思いを語り継ぐ人間でありたい。