エディ・タウンゼント


先日のカシアス内藤のニュースに触れて、エディ・タウンゼントの生き様を再確認したくなり
実家の部屋においてある本の山脈から、昔読んだ山本茂の「エディ」を発掘した。
再読して、いくつか再発見や驚きがあり
彼がいなくなった18年という時間の重みを、否が応でも感ぜずにはいられない。



日本のボクシング界に、少なくない功績を残した日系アメリカ人エディ・タウンゼント
意外なことに、古くはウィリアムズ1世(ノルマンジー公)に連なるイングランド貴族の
流れを組む名門家系の出身である。
もっとも、名門であったタウンゼント家は彼の三代前に没落しているし
彼の血の3/4は日本人なので、とりたてて驚くことはないのかも知れない。


継母や父親との折り合いが悪く、混血児であることを揶揄され続けたこともあり
エディは手のつけられない喧嘩坊主として育った。
14歳にしてボクシングと出会った彼は、ハイスクールで本格的に取り組み
やがてハワイチャンピオンとなり
褐色の爆撃機ジョールイスと同時期にアマチュアの全米大会に出場している。
喧嘩坊主がそのまま大きくなったようなスタイルで、徹底した攻撃型だったという。
全米大会で上位入賞を果たし、ベルリンオリンピックにこそ手が届かなかったが
147戦134勝という素晴らしい成績を残しプロに転向。
プロデビュー後13連勝を飾り、
まさに太平洋戦争前夜の1941年12月6日プロ初敗戦を喫する。
前日のダメージが残るなか日本軍の奇襲を目撃した彼は、
それと同時に選手としてのキャリアを終える。
真珠湾攻撃を日本は卑怯ーと日本に対するバッシングが高まる中で
「日本は卑怯じゃない。」と心中でつぶやきながら
不当な非難に耐え、戦争中はボクシングのトレーナーとして活躍し
戦後、大工組合の監督官の傍らでボクシングのコーチをしていたところを
力道山から強引にスカウトされ1年契約で来日に至る。


来日後、ハワイ時代、エディのジムで悪戯していた子供ハンマー藤*1
劇的な再会を果たし、彼を世界チャンピオンに育てあげ
すでにこの世になかった力道山との約束を履行する。
彼はそれ以降、日本各地のボクシングジムを転々とする流離さすらいのトレーナーとして
頂点を目指す若者をコーチし続けた。



彼の教えるテクニックにダーティなことが多く、
ジム内の人間関係のトラブル、拳銃の密輸事件に関与したりと
手放しで彼を評価できない部分もあるにはあるが
それでも彼の放つ魅力に抗うことはできない。
「殺せ、戦争よ、相手を殺す」とリングサイドで叫びながら
「試合が終わったら友達になりなさい」と諭す懐の深さ。
最期の愛弟子井岡と、文字通り起居を共にして頂点に昇り詰め
井岡の初防衛戦前の不甲斐ない練習を見て、
歩くことすらままならないほど病魔に冒された体でありながら
東京から大阪まで移動し、井岡にクレームをつける鋼の情熱。
井岡の初防衛成功の夜、薪尽きるように燃え尽きた彼の人生は
常人には真似することはおろか、想像すら及ばない"熱"を持っていた。


私が高校時代見たNHK特集で
働いて家計を支えた二回り年下の百合子夫人が
日本語があんまりしゃべれないし、明るそうに見えるけど本当は寂しい人と
エディ氏を評していた記憶がある。
彼のボクシングスタイルは、現役時代もトレーナー時代も
典型的なファイティングスタイルがベースなのだが
私には、それが、三歳で母親と死別れた彼が
母親の愛を欲しがりただ闇雲に暴れまわっていたように映る。
片言の日本語とその情熱によって多く選手の心に"火"を灯しつづけた彼は
多くの才能ある選手*2と出会い6人もの世界チャンピオン*3を育てたあげた。
トレーナーとして果報な人生を送ったことが
寂しがりやの彼にとって唯一の慰めであったかも知れない。

エディ―6人の世界チャンピオンを育てた男 (PHP文庫)

エディ―6人の世界チャンピオンを育てた男 (PHP文庫)

*1:本名ポール・タケシ・フジイ。日系三世で海兵隊除隊後、藤猛の名前でデビュー。

*2:内藤純一(カシアス内藤)、世界戦の切符を手にしながら網膜剥離で引退した田辺清、現俳優の赤井英和など

*3:ハンマー藤、海老原博幸柴田国明ガッツ石松(鈴木石松)、友利正井岡弘樹