(参考URL:トヨタカップを呼んだ男たち
トヨタカップが開始された頃、
tacaQの地元にはサッカーの少年チームは存在しなかった。
サッカーは、イバラキの片田舎ではマイナーなスポーツに過ぎず
tacaQが中学に入学した当時、ツクバ郡にはサッカー部のある学校は
たった3つしかなかったのだから人気のなさが想像できると思う。
そんなサッカーの過疎地方で育ちながら小学校の卒業文集に
「プロサッカー選手になってトヨタカップに出場したい」と書いたのは、
大きな夢を抱いていた故か、それともただの無鉄砲ゆえだったか、
今となっては、それを書いた当の本人ですら覚えていない遠い昔のことになっている。


トヨタカップは当初、世界一決定戦というよりはエキジビジョン的な要素が大きく
テレビ中継は録画だったりして、どちからといえば、
コアなサッカーファン以外はスルーされる存在だった。
シーズン中のヨーロッパのチームに対して、シーズンオフで大会を迎える南米チームの対決は
季節の違いというハンデを差し引いても南米代表が有利だった。
だがUEFAチャンピオンズリーグを成功させ莫大な収入を上げるようになると
南米の才能ある選手はヨーロッパに移籍し活躍するようになると試合の様相も一変し
真剣ガチンコ勝負の場となった。



第2回大会にフラメンコの一員としてジーコが来日した時は、まだ国立は枯れた芝生だったし、
日本選手が大会に出場するような欧州の一流チームでプレーすることなど夢の夢だった。
それが今では冬でも青い芝でプレーするのが環境が当然のように整い
HSVなどヨーロッパの一流チームでプレーする日本人選手を主力にして
ジーコが日本代表チームを率いているのである。
トヨタカップが開催された25年間の変遷に今さながら少なくない驚きを覚える。


トヨタカップに出場するという夢を叶えることはできかなったが
様々な形で日本サッカーの発展に貢献し
多くのものを与えてくれたトヨタカップに、ありがとう。