晏子


晏子〈第1巻〉 (新潮文庫)



久々に宮城谷作品を読了
古代中国春秋五覇の時代、恒公を輩出した斉において、
他国から亡命してきた一族である晏氏から、
傑出した二人の親子が登場する。


この物語を読んで、ふと思い出したのが司馬遼太郎の「国盗り物語」である。
親子二代にわたる物語など世の中には数多ある中、なぜ「国盗り物語」なのかと言えば、
高い志が親から子に受け継がれた物語だからである。
晏父子は親子二代にわたり、強烈かつ無比な忠誠を持っていた。
忠誠には、三つの種類があり、
君主の言ったことを実現するのを下、
君主言わないことでも意を察して実行するのが中、
君主の意に反しても道を糾し名を高めるのが上、とするのだが
この親子は、上の忠誠を持って君主と斉の国に仕えた。



父・晏弱は、自らが窮地に陥ることを承知で君主の代わりに会盟に臨んだことにより
その胆力の大きさを認められ、名を知られるようになる。
また、斉の版図を隣の莢まで広げる際にも、莢の民心が斉に帰すように
絶妙の仕掛けを施す深い知恵も持ち合わせていた。
豪胆な肝と深い知恵によって裏打ちされた晏弱の行動は
見るものを魅了せずにはいられない。
一方、晏弱の子・嬰は、体躯こそ小さく見劣りするが、胆力は父をも凌ぎ、
三代の君主に仕えならが、その心は常に一つに定まっていた。
斉への忠誠である。
それゆえに諫言をやめることなく君主を諌め続けた。
霊公亡き後、政変が幾度となく繰り返され変遷する中で
嬰の行いは改むることはなかった。
政変によって斉の政を握るものが催氏と慶氏となった際、
「催慶に与し、公室に与する者は不祥を受けん」という誓約を立てなければ、
命が危ないという状況においても子嬰の姿勢は変わることがなかった。



二人が至極大事にしていたのは、国の守り神にして、先君の霊である社稷であった。
社稷を大事にするが故に、この親子は君臣の道を外れる行いをしなかった。
二人の高潔さは、晏家の家俗(家訓)からも伺うことができる。
「多忙でなければ議論せよ。外では人の美点を称揚し家では切磋琢磨せよ。
 国事に関することを議論せず、驕り侮る者には会わぬ。」
というのが晏家の家俗に合わぬという理由で、家宰を罷めさせている。
一般的にどんな名言であれ、言うはたやすく、行うのは困難なことである。
家俗だけでなく、己の信じるところをを何の打算もなく実行できる人物が
一代限りでなく二代続いたことに、晏親子の稀有さと偉大さがあるように思える。