稽古

とある柔道関係者の話をきき
柔道の創始者嘉納治五郎の教えが
先取性に満ちて、かつ合理的なものだったことに
少なからず驚かされた。

曰く、嘉納の目指した柔道は
「型」「実践(乱取り)」「講義」「問答」の四つから
成り立っている。
技の基本を型を学び、実践で体得し
それを言語化して伝え、
問答を通じて教える側も
成長を促すのが目的であった。


スポーツを体育と訳し、武道をスポーツととらえることに
いささかの抵抗を覚えるものであるが
人間の成長が武道の本質であるとするならば
武道とは体育と同義ととらえても間違いではないのかもしれない。

稽古とは、古(いにしえ)を稽(かんが)えるー
型を学ぶ稽古に、そうした意味があったことなど
ついぞ考え方ことなどなかった。
自身の不明を恥じる。

世界で一番になろうじゃないか

http://majo44.sakura.ne.jp/trip/2019hondahall/12.html

「ホンダは、松明(たいまつ)を自分の手でかかげて行く企業である。
日本の自動車企業には前を行く者の持つ明かり、その明るい所について行くものが多い。が、たとえ小さな松明であろうと、自分で作って自分たちで持って、みんなと違ったところがありながら進んでいく、これがホンダである」

まるで本田宗一郎総司令官の発言のようですが、これが藤沢副社長の発言であり、二人が根源的な部分で深く共闘していたのだ、という事が判ります。藤沢さん、ただの営業屋じゃないのです。
ホンダという会社は本田宗一郎総司令官の天才性による所が大きいのは事実ですが、実際にその基盤となっている企業体質、思想などは半分以上が藤沢副社長によるものだと思っていいでしょう。
例えば日本の企業の中ではかなり早い段階から国際展開をしていたホンダですが、これも藤沢副社長の決断によるものでしたし、以前もちょっとふれたマン島TTレースを目指す事を明らかにした宣言文も、実際は藤沢さんが書いたものでした。

tacaQが尊敬してやまないマニア・夕撃旅団氏のページには
茂木のホンダコレクションホールの探訪記があり
その記事は、ホンダに対する愛情に似たリスペクトの念が
散りばめられている。


高校時代に高校の大先輩海老沢泰久氏の「F1地上の夢」を読んで
本田宗一郎本田技研工業、そして
宗一郎と長らくコンビを組んで副社長を務めた藤沢武夫氏について
ある程度知った気になっていたが、
その認識は誤りであった。

 わが本田技研はこの難事業をぜひとも完遂し、日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。
わが本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。
 ここに私の決意を披瀝し、T・Tレースに出場、優勝するためには、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。

イギリスのマン島に赴き、
自社の2倍以上の馬力を出す
世界基準のバイクレースを目の当たりにしも
臆することなく
世界一を目指した宗一郎の檄文が
プラスのネジすら存在しない工業化の遅れた国の
しかも、資金繰りに行き詰まり、倒産寸前の会社が
掲げた宣言だとはついぞ知らなかった。


戦後、焼け野原になった日本では
小型エンジンを自転車に取り付けた乗り物が重宝され
あまたのバイクメーカーが屹立しては消えていった。
生き残った4社に何故に本田技研が加わることができたのか。
生き残るだけでなく
世界的なメーカーとしての地位を確立することができたのはなぜか。
宗一郎氏の卓抜した技術、社会性を重視した倫理観もさることながら
藤沢氏の透徹した経営哲学や先見性なければ
難しかっただろう。



honto.jp
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日経はたわわが、すき

月曜日、職場で新聞をめくってみると
印象的な講談社の広告にでくわした。
ヤンマガに連載中のコミックの宣伝に
過ぎないのだが
アプリでこのまんがを読み込んでいたので
思わず笑い声が口もとからがこぼれた。

サラリーマンとたわわなJKが
電車で出逢い始まるラブコメだから、
新聞広告もありかなと思うのだか、
電車で新聞を読んでるサラリーマンの
購買意欲にどれほど刺激を与えたのか
気になるところである。

さてこの広告、全国紙である五大紙全部に
掲載されたのかと思いきや、
載ったのは日経だけだったようである。
なんでだろう(?_?)

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航空行進曲

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歴史群像に連載されていた吉原昌宏氏の
「翼をもつ魔女」が完結を迎えた。
といっても最終回が掲載されたのは
昨年の12月号の話なので、
かなり出遅れた話である。

航空行進曲の邦訳を記しつつ
主人公のリドバクが来世に
仲間との再会を希望し
戦闘機に搭乗するラストシーンは
戦争に翻弄されながらも
精一杯駆け抜けたであろう彼女の生きざまが
否が応でも想起させられ、
その酷薄ともいえる生涯に
感情が激しく揺さぶられた。


メンフィスベルを始め
多くの映画やドキュメンタリーが
作成された西部戦線とは違い
ドイツとソビエトが対峙した東部戦線は
個人的にスターリングラードくらいしか
なじみがなく
ましてや航空戦に女性パイロットが
投入されていたことなど
まったく知らなかった。
不明を恥じるばかりである。

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現実の話として
物語の主人公となったリディア・リトバクは
東部戦線で行方不明となったのち
捕虜になった疑いが生起し
その功績は長い間、
称えられることはなかった。

ウクライナの地で
彼女のものと思われる遺骨が見つかり
英雄として認められたのは
彼女が守った祖国が
崩壊する前年の91年5月であったことが
伝えられている。


彼女の人生の終となった地では、
かつて同じ国民であった者たちが対峙し
再び大地を朱にそめている。
泉下の彼女は繰り返される惨劇に何を思うか。


曲調と歌詞が勇ましさでみちているこの曲を
滑稽と笑い飛ばすことは容易だが
空で命を落としたものたちの悲哀を
感じずにはいられない。



www.youtube.com

ウクライナ

ロシアリーグでプレー経験のある本田が
ロシアのウクライナ侵攻についてコメントを発している。
サッカー選手が政治や戦争に関して意見を述べることに
賛否はあるかもしれないが
発言の主旨だけ見れば至極もっともだと感じる。

ウクライナNATO加入を否定しないことが
ロシアのレッドラインを越えることは
容易に想像できた筈だ。


それとも、西側はロシアが最近流行りの
戦争にならない戦闘で
威嚇するだけだとおもいこんでいたのだろうか。

アフガンの混乱した撤退ぶりを見れば
米国大統領の警告の言葉など、
テレビのCM程度に気を止めてくれればいい方だろう。
まして日本の首相が仲裁を買って出たり、
武力行使の非難などしているが
痛痒さすら感じない筈だ。

80年前に、満州にしがみついて米国と戦争に
踏み切った史実を、軍部の独走と責任転嫁し
歴史を真摯に学ばない国の宰相が
平和を口にしたどころで虚しいだけだ。


如何なる理由があろうとも
侵攻するロシアに非があることに疑念の余地はない。
しかし、ウクライナには戦争を回避する方法は
あったにも関わらずそれをしなかった。
戦争を覚悟した上で、ロシアの警告を無視したのならば
それもありだが、
米国や世界の善意を信じて
自国を危険に晒したならば、めでた過ぎるとしか
言いようがない。




www.soccerdigestweb.com

プーさんシャワー危うし

2022年のオリンピックを外から観客を入れないのは
プーさんシャワーを禁止するためだったかも・・・・

習近平にツッコミいれるとは
さすがおとロシア



www.bbc.com

ドリームランド

www.kinokuniya.co.jp


推定ではあるが、
第二世界大戦と戦後の米空軍の迷走と再生を
描いた「F-22への道」の作者夕撃旅団は
浜田一穂氏もしくはその関係者ではないか、と思う。



さて、数々の航空関係の訳本を
手掛けきた浜田一穂氏が
ドリームランドと呼ばれたエリア51
極秘の開発を行い
東側領土上空で作戦を展開した
米軍の偵察機U-2の"歴史"をまとめた一冊は
航空機マニアのみならず、
冷戦下に隠され米ソのスパイ活動に
興味のある人間にはたまらない内容である。

ソビエトがミサイルで
アメリカ本土に核を打ち込むことが可能で
容易ならざる敵であった冷戦時代

ソビエト人工衛星の打ち上げ
スプートニク・ショックは
アメリカを狼狽させ、混乱の渦に投げ込んだ。
太平洋戦争の悪夢ともいえる
日本の真珠湾攻撃の記憶がよみがえり
被害妄想を増幅させ
様々なスパイ活動や兵器開発に
無駄に熱い情熱と予算を注ぐ
冷静さを失ったアメリカで
一つのユニークの機体が開発される。

第二次世界大戦
米国初のジェット戦闘機を誕生させた
ロッキード社の航空機デザイナー、
クラレンス・"ケリー"・ジョンソンが
手がけた高高度偵察機
高度7万フィート(2万1千メートル)以上の
高空を飛行し
ソビエトの領土上空から
クレムリンが隠していたロケットや核施設など
様々な秘密をカメラに収める。

結果的に1960年以前のソビエトには、
アメリカが恐れるような能力はなかったのだが
敵を実態以上に見積って
準備する軍人のサガともいえる
過剰な防衛意識は止まらない。


この成層圏を飛行する飛行機は
高層大気の調査研究という大義名分を用意して
NACA(全米航空諮問委員会:NASAの前身)の
ロゴを入れたりしていたが
空軍戦略軍団出身の予備役パイロットを
リクルートして
CIAがミッションを転がしていた。

空軍ではなくCIAが偵察を担当していたのは
偵察が露見した時に軍主導だと
ソビエト軍が反応して
戦争に発展する可能性があったことと
思い込みで暴走しがちな軍部の
悪習を知悉し、これを懸念した
軍部出身のアイゼンハワー大統領の
叡慮だったたようである。

1960年5月ソビエト領空を飛行中に
ミサイルで撃墜され
パイロットのゲアリー・パワーズ
スパイ機を飛行させていたことから、
軍人として扱われずに
スパイとしてソビエトの軍事裁判に裁かれ、
禁固10年の刑をいい渡される。
その後、スパイ交換の対象となり
1962年2月に米国に帰還している。

帰国後は、
ソビエトKGBの取り調べを受けたことで
機密漏洩やダブルスパイの可能性を疑われたり
捕虜になる前に自殺をしなかったということで
CIAや空軍から冷遇を受け、
嫁に逃げられるなど
悲喜こもごものエピソードが
織り込んである一方で
フルシチョフアイゼンハワーケネディの間で
交わされた駆け引きは
最近公開された機密の情報を
丹念に読み込んだ作者の
真骨頂ともいうべき見せ場で
自身の勉強不足を色々と痛感させられた。


世界が核戦争の惨禍にまきこまれなかったのは
冷静に判断できる指導者が
米ソ双方にいたからであり
幸運にめぐまれていたのだと
思わずにはいられない。


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