[book]脳はなんで気持ちいいことをやめられないの?

コミックエッセイ 脳はなんで気持ちいいことをやめられないの?

コミックエッセイ 脳はなんで気持ちいいことをやめられないの?

  • 作者:中野信子
  • 発売日: 2014/04/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
脳は、主語や否定形を理解できない……
という言葉を見かけて、その根拠について探索したところ
行き着いたのが
脳科学中野信子氏の
「脳はなんで気持ちのいいことをやめらいの?」だった。
中野氏が監修しているものの
コミックということで内容がやや緩く
納得いかない部分が全くないわけでもないが
それなりに面白く、男性と女性の脳の働きや
セロトニンドーパミンの働きなどが
わかりやすく解説してあった。

[book]戦国武将の精神分析

戦国武将の精神分析 (宝島社新書)

戦国武将の精神分析 (宝島社新書)


戦国武将の精神分析
歴史学者本郷和人氏との対談という形で
まとめられており
それなりに説得力があって面白かった。
特に、熟女を好んだ家康が晩年、
なせロリコンに走ったかなどの珍解説や
織田信長サイコパスぶりを脳科学の見地で
もっともらしく解説するくだりで
当時日本の学問の最高機関でもあった比叡山
被害にあった三千人という数は
奇しくも現代日本の最高学府東大の職員数と
かぶるというトリビアネタや
豊臣秀頼を生んだ淀の君の懐妊は
実は天文学的な確率だった件など
歴史が好きな人には楽しいネタがつまっていた。

ロケット・ササキ3

電卓開発で半導体の最先端を走っていた佐々木とシャープだが
LSIの次の半導体について予想を外してしまう。
LSIは、固定記憶装置ROM、一時記憶装置RAM、中央演算処理装置CPUから
構成されるのだが、佐々木はLSIの小型化、超LSI次に来ると予想していた。
数学に強い若手女性社員が次世代につながるヒントを発するのだが
佐々木はそれを聞き流してしまう。
その頃、フェアチャイルドから独立してインテルを立ち上げたロバート・ロイスを
東京に迎える。
シャープで使用する回路はロックウェルの独占契約を結んでいるので
ロイスに大学の後輩・小島義雄が起こした会社ビジコンを紹介する。
インテルは、のちにLSIの機能を分割したマイクロプロセッサ―MPU4004を
発表し、市場を席捲することになる。
佐々木もアメリカのザイログと組んでマイクロプロセッサーを販売するのも
反撃のチャンスを得ないままに終わる。
佐々木は女性社員の言葉を深く受け止めなかったことを
最大の失敗と悔いる。


その後、佐々木は後進を育てることに注力する。
ソフトバンクを築いた孫正義アスキー西和彦などである。
アップルを起こして追放されたスティーブ・ジョブス
ヒッピースタイルのまま東京に来て佐々木に教えを乞うている。
佐々木の念頭にはお互いに高めあう協創があった。
どんなに優れた技術も2年で追いつかれるー進化のスピードに
適応するためには次の技術へ飽くなき探求ことが重要であり
それらの技術によって世界は住みやすくなる、という考え方だった。

1970年の大阪万博の頃、早川は万博に出展を予定していたが
佐々木は半年でなくなる万博の展示館より
早川を支える技術開発のために資金を出せと経営陣に詰め寄る。
結局は、創業者徳次の自分が恥をかけばいいだけだからといって
佐々木の案を通すのだが、佐々木はそうした創業者の大きさに
守られてシャープを大きくしていった。

電卓競争がシャープのほぼ一人勝ちとなった後、
松下から佐々木のもとに講演の依頼が舞い込む。
それは弱小メーカーのシャープに
足元をすくわれたことに我慢ならなかった創業者松下幸之助の意向だった。
シャープ内が反対の意見で騒然とする中、徳次は
「教えてあげなさい、それでだめになる会社なら
それまでの会社です。」と度量の大きさを見せつけ
佐々木の講演を承諾する。

創業者の早川秀治、たたき上げの佐伯らが牽引していたころ
シャープの技術を支えたのは佐々木であったが
その理念は紛れもない協創があった。
佐々木は1989年7月に顧問を最後に会社を退くが
その後も、さまざまところで日本のみならず
世界の技術発展のために尽力する。

佐々木が去ったシャープは苦労人の佐伯が引退した頃より迷走を始める。
儲かると踏んだ液晶に注力し会社を大ゴケさせて
鴻海の子会社として再生中なのは、周知のとおりである。
佐々木は、液晶の技術を一人占めしようとして失敗した経営陣を
傲慢と評した。


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半導体で日本に遅れをとったアメリカは
コンピューターからインターネット、ネット検索や販売に
SNSを開発して世界を再びリードするようになった。
二番手に甘んじることを是としたままでは
日本は永久に浮かび上がることはできない。
アニメや伝統文化以外にもこの国には誇れるものがあったことを
思い出させてくれたのが「ロケット・ササキ」だった。

ざっくりと大西康之が書いた本の内容を記してみたが
佐々木を中心とする技術者たちの生き様は痛快の一言に尽きる。
日本中が貧しい中、今の基準でいえばブラックな会社ばりに
働いて新しい技術を開発し、世間をあっと言わせる。
そういう生き方が是とされた時代の話は
日本が一番まぶしかった時代ではないだろうか。

作中、日米の技術者の待遇の差を嘆く吉田幸弘の挿話もあるが
日本の技術が衰退した理由は、
技術者を大事にしない日本社会の風潮が大きいような気がする。
人々を養うためには金儲けが大事だが
それよりも大事なのは技術であることを日本人は
いつからか、忘れてしまったような気がする。
利益の最大化だけが会社の目的となり
チャレンジすることを忘れた会社は急速に官僚化が進み腐敗する。
腐敗しないまでも、活力を失い停滞を余儀なくされる。
そんな企業のなんと多いことか。
それは、ひたすら正解だけを追求することを教えられた世代が
社会を動かすようになった帰結ではないだろうか。

新しいものを創造するー
それは大きな苦しみと困難を伴うものの、大いなる喜びをもたらす。
日本がそんな当たり前の事実を思いださせてくれた一冊だった。

ロケット・ササキ2

早川電機に転身した佐々木は、早川で取り扱っていた事業のうち、
1964年に53万5000円で発売していたオールトランジスタの電卓CS-10Aに目をつける。
トランジスタの電卓は大阪府立大出身の浅田篤らが作ったものだった。

実は電卓を作るまで早川の会社の中と外でひと悶着があった。
通産省は日本企業の競争力をつけさせようと
コンピューター開発する会社に補助金をつけるのだが
早川はその補助金の対象から、体力がないとの理由で外されてしまう。
創業者の徳次は憤慨して見返してやると息巻いた。

浅田は、入社してからテレビの開発部に配属されたものの
故障修理ばかりの仕事に飽いて不満をためていた。
若手の技術者の鬱屈した雰囲気を感じた専務の佐伯は研究開発部を新設する。
それは早川にいる100人の技術者のうち若手20人を抜擢した英断といえるものだった。
選ばれた浅田は、手がけると死ぬといわれたコンピュータの開発に乗り出す。

後輩の鷲塚諫とともに朝の9時に阪大の研究室にいって論理設計と回路技術を教わり、
昼から夜中まで会社で働き、技術的な壁にぶつかれば夜中でも阪大を訪ねるという
無茶苦茶な生活を半年続けたのちに製作に取り掛かりHYACH-1を完成させる。
しかし、くみ上げたHYACH-1は足し算は早いが掛け算は×1しかできず
創業者の早川徳次に人間より頭が悪いとユーモアを混ぜた感想を頂戴する。
それでも開発を続けた浅田は、会計機という形で製品化にこぎつける。
会計機の値段は100万を超えていたために月10台を売るのがせいぜいであった。
そしてオールトランジスタの電卓をCS-10Aを作り上げたところで
佐々木が早川にやってきた。

佐々木は早川にきてそうそう
計算機の回路は将来人間の頭に組み込まれるのチップになると嘯き
浅田ら若手の技術者を唖然とさせる。
佐々木はトランジスタゲルマニウムからシリコンに変更するよう指示し
テンキーをつけて操作性を向上させた電卓CS-20Aを1965年に49万8千円で売り出す。
これが月間2000台を超すヒット商品となる。
勢いづいた早川は日本開発銀行から2億円の融資をとりつけ工場を新設すると
佐々木は利子が発生しない2年のうちに返済を目指すと宣言する。
義経鵯越のごとく佐々木は号令をかけて
不可能と思われていた難題に取り組み
早川は本当に2年たたないうちに返済を完了してしまう。
儲け損ねた融資先の銀行からは不興を買うが佐々木は涼しい顔で受け流す。
そしてCS-20Aのヒットで早川は
電卓の国内シェアを50%を超すまでに伸ばす。

当時磁石を使ったリレー(継電器)を使用した計算機を製作していたカシオ電機は
早川の成功を受けて、トランジスタ計算機の開発に乗り出し
1965年、メモリー付の計算機カシオ001を38万円で発売し、早川に対抗する。
それに対して早川はICを使った電卓CS-31Aを1966年に35万円で発売する。
重さは13キロで、CS-10Aの25kgに比べる重さはほぼ半減させた製品だった。

佐々木は、工場の新設に伴い家族用の寮の設計も手掛けるのだが
その過程で金属酸化膜半導体(Metal Oxide Semiconductor)使用の着想が生まれる。
当時の技術ではMOSの大量生産は不可能と考えられており
佐々木のアイデアは浅田たちが青ざめさせるには十分すぎるものだった。
それらは何事もなかなかつたように佐々木は走り始める。
佐々木の発案に対して国内の企業はどこも応えることができず
アメリカで航空機製造で名をはせていたロックウェルに佐々木は足を運ぶ。
佐々木は、そこで3百万個のチップ、3千万ドルという早川の資本金を
超える巨大なオファーを出して副社長のコヴァックの度肝を抜く。

佐々木がアメリカで交渉しているころ日本では、
早川入社2年目の吉田幸弘MOSと格闘を開始する。
吉田は物理と数学に強い変人でそれなりに優秀だったが
家から近いという理由で危ないと噂された早川に入社していた。

吉田は、日立の大野稔から四則演算に必要な4000個のMOSを買い付ける。
大野稔はMOSの構造から将来性を見抜き独自というり孤立しながら
日立でMOSの研究をしていた技術者だった。
結果的に大野稔はアメリカの大手企業ができなかったMOSの開発を
一人でやり遂げてしまうのだが、当時彼の偉業は国内では
誰も理解できなかったというくらいぶっ飛んでいた。

吉田はそんな大野から買い付けたMOSを使い
3日間ぶっ通しで回路を組み込み、試作機の製作を成功させる。
4000個のトランジスタに不良品が一つもなかったことも驚異だが
4000個の部品を一つの間違いのない回路に組み立てた吉田の作業も
驚異以外の何物でもなかった。
そして、それは敗戦国日本とあなどっていたロックウェルの技術者を
驚愕させるには十分すぎる代物でもあった。

吉田は試作機を作成した後、佐々木とともにロックウェルで
アポロ計画に使用するMOS-LSIの開発に取り組む。
そこで佐々木は突飛なアイディアを次から次とだしては
ロックウェルの技術者を驚かし、ロケットのようだと言わしめるほどの活躍をする。
早川は1969年にMOS-LSIを使用した電卓QT-8Dを
9万9800円(重さは.4kg)で発売する。その宣伝には
アポロが生んだ電子技術云々とのとコピーが使われていた。


1971年立石電機はオムロン800をQT-8Dの半額以下の4万9800円で発売して
電卓市場を大きな波を起こす。
これに対してカシオは一つの方向性を定める。
値段を1万にして100万台の販売を目指すのである。
1964年から10年で売れた電卓が1000万台であることを勘案すれば
それは国内の電卓市場をカシオが独占するにも等しいリスキーな目標であったが
カシオが生き残るための戦略としては必然の帰結でもあった。
カシオは表示を6桁にしたうえ、電卓を文房具として売り出す策略をねり
1972年8月にカシオミニを1万2800円で売り出す。
結果、一年半で200万台、三年で600万台を売る爆発的なヒットとなった。

1970年にシャープと名前を変えた早川の佐々木は
6桁のカシオに対抗する方策としてディスプレイと電源に目をつける。
当時の電卓はアメリカのバローズ社のニキシー管を使っていたが
高額のライセンス料をとっており、値下げの交渉には応じなかった。
シャープのディスプレーを研究していた和田富夫はテレビでアメリRCA
ダイナミック・スカッタリング・モード(動的散乱モード)という名称で
開発を進めていた技術に興味を持ち、佐々木に相談する。
佐々木は、RCAが製品化があきらめられた技術のライセンス契約を結び
液晶の研究を進めさせる。
表示速度の改善に難航したものの偶然の出来事から
解決の糸口をみつけた和田は開発を一気に進める。
浅田と鷲塚は単三電池で100時間稼働を目指し、省電化を進め
CMOS(相補型MOS)の使用、ガラス基板に直接イリジウムの配線を行うという
世界初の技術を盛り込みEL-805を1973年に販売する。
サイズは、78mm×118mm×20mmで重さ200g、値段は 2万6800円だった。
カシオミニは、重さ315gで 厚さ42mmに比較しても
衝撃的な製品で、この発表で50社前後が乗り出した電卓市場は
シャープとその競争相手としてカシオだけがかろうじて生き残ることになる。
また、そのカシオもシャープの脅威の技術力を目の当たりにして
電卓以外での分野を指向する。

シャープは さらに65gのEL-8130を1977年 8500円で発売し、
13年続いた電卓市場の激烈な競争にピリオドを打つのであった。

ロケット・ササキ1

ロケット・ササキ:ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正

ロケット・ササキ:ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正

  • 作者:大西 康之
  • 発売日: 2016/05/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

副題で「ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正」となっていたが
目の付け所がシャープだった早川電機が
通産省からコンピューター開発は無理と
補助金の対象から外されたリベンジとばかりに
トランジスタ製計算機の開発に乗り出し
佐々木正と愉快な仲間たちが好き勝手に突っ走る後半が
とても面白かった。
エンジニアもどきのtacaQにとって、である。

前半部分は、佐々木正の半生なのだが
簡単にかいつまんでいうと
台湾で生まれ、京都大学で弱電を研究し
それゆえ、希望とは別の川西機械製作所に引っ張られたのに
何故か反物をアフリカで売りさばき
一年後に明石で真空管の製造工場の建設にかかわり
荒くれも建築業者とのいざこざも酒を飲んで手打ちに持ち込み
真空管の製造とレーダーの研究を始めたところ
軍部からは川崎で殺人光線の研究を命じられる。

終戦後は川西から分離した神戸工業で働きながらも
GHQに呼びだされて、アメリカで品質管理と協創を学び
東京大学で物理を教えていた嵯峨野遼吉から
無力感から就職先を探しあぐねていた
変わり者たが頭の良い江崎玲於奈をもらい受ける。
当時の花形であった真空管にかわり
トランジスタの時代がくることを予見して
江崎にトランジスタの研究をさせるとももに
苦手な英語を克服させために、米国出張を押し付て
一人前の技術者として成長させる。
やがて江崎は、トランジスタに理解を示さない神戸工業に見切りをつけて
東京電機の井深大に誘われて引き抜かれる。
神戸工業にとって痛手であるものの江崎のため、
日本のためといって佐々木は江崎を快く送り出す。
その後、のちに電子レンジと呼ばれるレーダーレンジを開発し
ハヤカッタ電気と揶揄された早川電機と組んで製品化に成功する。

神戸工業がこけた後は、大学で教鞭をとろうとするも
会社が傾きかけた早川電機の専務佐々木旭から
三顧の礼ばりに出迎えられて早川に転身。
早川では電卓の開発に携わり、カシオとの熾烈な価格競争を演じる。

電卓に使うLSIの生産を依頼するため
米国のノースアメリカン・ロックウェルに赴き、
軍需だけで取り扱っていたLSI民需でも使えるように
不良品の歩どまりを減らすべきだと説教じみた提案をかます
のちにロックウェルを通じて米国の月面探査計画、
アポロ計画にも携わるようにるのだが、
突飛なアイデアを出しては周囲を驚かし
最終的に問題を解決してしまう佐々木は
いつしかロケット佐々木と呼ばれるようになった……



独創より協創ー、技術は半年で追いつかれる、
常に新しい分野の開拓が身上であった佐々木のスピリットを
今のシャープが十分の一でも受け継いでいたら
現在の体たらくはなかっただろう、と個人的に思う。

ロバート・キャパ

「キャパとゲルダ


スペイン内戦でフランコ将軍と戦った民兵の倒れる写真で
戦争写真家としての地位を築いたロバート・キャパ
彼は、恋人にしにて写真仲間であったゲルタ・タローを
スペイン内戦中に事故で失っている。


「キャパとゲルダ」は、ともにユダヤという出自が理由で
故国を去り、ヨーロッパで居場所を探していた二人が出会い
協力しながら写真を売り歩きながら絆を深め
ゲルダの死によって永遠の別れを告げた悲劇的な恋の記録と
その後のキャパを断片的に記している。
ありていな感想を言えば、キャパに興味のある人間なら
手にとるだろうが、それ以外の層に売るとなると
正直厳しいのではないだろうか。



さて、キャパはその後、第二次世界大戦
連合軍に紛れ込み写真を撮りながら
イギリスで"ピンキー"と呼ぶ赤毛の女性と恋仲になり
戦後はアメリカでイングリッド・バーグマンと浮名を流す。
彼は何人かの女性とか恋仲になりながらも
結婚には至らず、生涯独身を貫く。
ゲルダを忘れられなかったーと誰しもが思うだろうし
自分自身、そうだったと信じていた。

信じていたと過去形で書くのは、
キャパにまつわる色々な伝聞にふれるうちに
彼の人となりが自分が思うよりも
強かであったであろうことに思い至ったからだ。
彼は、いろいろな噂や風評について、
肯定も否定もせずに流れに任せて
噂自体を面白がっていたような節があり
もしそうならば、ゲルダという存在に
彼が終生とらわれるのは不自然と感じるようになってきた。

もちろんゲルダとの恋愛は真実であり
彼女の死に際し、彼が悲嘆にくれたのは事実だろう。
その後の多くの恋を咲かせながらも
結婚という果実を実らせなかったのは
ゲルダへの思慕ゆえだといのうは、
三者による過剰なロマンチシズムだと思う。


とはいえ、魅惑的な笑顔で、
手練れの詐欺師のように不思議と話しをまとめてしまう
怪しげな側面を併せ持つキャパには
やはり、真贋不明の伝説の衣をまとっていた方が
個人的にはしっくりくる。



キャパの十字架 (文春文庫)

キャパの十字架 (文春文庫)

「キャパの十字架」


ルポライター沢木耕太郎
キャパを戦争写真家として押し上げた「崩れ落ちる兵士」の謎に
挑み、その経緯と結果を記した作品。
2013年ごろ、NHKがドキュメンタリーとして
テレビ放映された内容と、同一であった(ような気がする)
報道された写真の縦横比や
ゲルダとキャパが使用していたカメラの特徴から
崩れ落ちる兵士が「本物」ではなく、
ゲルダが撮影した可能性が高いとの結論だった。

タイトルの含意は
キャパは「フェイク」によって生涯にわたり
十字架を背負ったとする沢木の見解なのだろう。
やや大上段に構えすぎているようなタイトルだと感じる。

個人的な見解を述べれば
沢木の結論が事実にせよ、
キャパがその事実をキリスト教徒の原罪のように
感じていたとは思わない。
真実と虚構の間を歩き
自分の感情にすらときおりフェィクをいれる
人生を楽しむ達人であったー、そう思えてならない。

863計画と日本学術会議

日本学術会議のロゴ
どこかで見覚えがあると思ったら
中国の国家高度技術研究発展計画、
通称863計画のロゴだった。


ロゴのデザインを模倣したかどうかは
制定の経緯は不明だが、
中国様に配慮する日本学術会議には
ある意味、ふさわしいデザインかもしれない。

学者の全人代

10月1日に、菅首相が学術会議から推薦を受けたメンバーのうち
6名を任命しなかったことが判明し、波紋を広げている。
学術会議とは、日本国内の学者の代表であり
学者の国会といわれている組織であり
学問の自由を侵害するけしからん決定は
撤回せよと朝日新聞などが伝えている。
さらには、共産党の志位委員長や立憲民主党蓮舫議員も
菅首相の決定に抗議の声を上げている。


そうした報道に対する意見として
ヤフーなどのコメントをみてみると
首相への反論や攻撃よりも、
学術会議や議員の言動を疑問視する声が
多く寄せられていることに気付く。
ヒステリックでノイジーな声は、まだ大きいが、
揚げ足取り議員と権威主義を振りかざす学者の笛に
世間が躍らなくなってきているように感じる。
反日本政府の掛け声に
マスコミは喜び勇んで太鼓を叩いているが
潮目が変わってきていることに気が付かないまま
騒々しい団体と人間たちとまとまって退場する日も
そう遠くないかもしれない。


自民党の甘利議員の国会リポートにもあるように
学術会議は、日本の防衛研究には反対するものの
中国のそれには大喜びで協力する一国二制度
まかり通っているという。
知らずにやっているのならば、
学術会議は節穴のぼんくらぞろいである。
知ってやっていれば
二枚舌で恥知らずの売国奴という言葉が
適切ではないだろうか。
首相に説明を求めると息巻いている連中が多いようだが
詳細を語られて困るのは一体誰だろうか。

中華系米国メディア「大紀元」で
共産主義者中国共産党の活動に辛辣なコラムを
書いている掛谷氏に言わせれば、
学術会議は、学者の国会というより
「学者の全人代」の形容がふさわしいとのことだ。

座布団一枚!!



this.kiji.is

this.kiji.is

www.hokkaido-np.co.jp

www.daily.co.jp

www.asahi.com



www.jcp.or.jp

日本学術会議防衛省予算を使った研究開発には参加を禁じていますが、中国の「外国人研究者ヘッドハンティングプラン」である「千人計画」には積極的に協力しています。他国の研究者を高額な年俸(報道によれば生活費と併せ年収8,000万円!)で招聘し、研究者の経験知識を含めた研究成果を全て吐き出させるプランでその外国人研究者の本国のラボまでそっくり再現させているようです。そして研究者には千人計画への参加を厳秘にする事を条件付けています。中国はかつての、研究の「軍民共同」から現在の「軍民融合」へと関係を深化させています。つまり民間学者の研究は人民解放軍の軍事研究と一体であると云う宣言です。軍事研究には与しないという学術会議の方針は一国二制度なんでしょうか。

甘利明 Official Web | Akira Amari

日本学術会議は「学者の国会」などでは全くない。我々学者は、学術会議のメンバーを選挙で選べない。お上が勝手に人選している。だから「学者の全人代」という方が正しいだろう。もし、我々が選挙で選んだ政治家が、その人選に一切口を挟めないなら、その方が非民主的。

Hideki Kakeya, Dr.Eng. on Twitter: "日本学術会議は「学者の国会」などでは全くない。我々学者は、学術会議のメンバーを選挙で選べない。お上が勝手に人選している。だから「学者の全人代」という方が正しいだろう。もし、我々が選挙で選んだ政治家が、その人選に一切口を挟めないなら、その方が非民主的。 https://t.co/ocy2SmXhRH"