ロケット・ササキ2

早川電機に転身した佐々木は、早川で取り扱っていた事業のうち、
1964年に53万5000円で発売していたオールトランジスタの電卓CS-10Aに目をつける。
トランジスタの電卓は大阪府立大出身の浅田篤らが作ったものだった。

実は電卓を作るまで早川の会社の中と外でひと悶着があった。
通産省は日本企業の競争力をつけさせようと
コンピューター開発する会社に補助金をつけるのだが
早川はその補助金の対象から、体力がないとの理由で外されてしまう。
創業者の徳次は憤慨して見返してやると息巻いた。

浅田は、入社してからテレビの開発部に配属されたものの
故障修理ばかりの仕事に飽いて不満をためていた。
若手の技術者の鬱屈した雰囲気を感じた専務の佐伯は研究開発部を新設する。
それは早川にいる100人の技術者のうち若手20人を抜擢した英断といえるものだった。
選ばれた浅田は、手がけると死ぬといわれたコンピュータの開発に乗り出す。

後輩の鷲塚諫とともに朝の9時に阪大の研究室にいって論理設計と回路技術を教わり、
昼から夜中まで会社で働き、技術的な壁にぶつかれば夜中でも阪大を訪ねるという
無茶苦茶な生活を半年続けたのちに製作に取り掛かりHYACH-1を完成させる。
しかし、くみ上げたHYACH-1は足し算は早いが掛け算は×1しかできず
創業者の早川徳次に人間より頭が悪いとユーモアを混ぜた感想を頂戴する。
それでも開発を続けた浅田は、会計機という形で製品化にこぎつける。
会計機の値段は100万を超えていたために月10台を売るのがせいぜいであった。
そしてオールトランジスタの電卓をCS-10Aを作り上げたところで
佐々木が早川にやってきた。

佐々木は早川にきてそうそう
計算機の回路は将来人間の頭に組み込まれるのチップになると嘯き
浅田ら若手の技術者を唖然とさせる。
佐々木はトランジスタゲルマニウムからシリコンに変更するよう指示し
テンキーをつけて操作性を向上させた電卓CS-20Aを1965年に49万8千円で売り出す。
これが月間2000台を超すヒット商品となる。
勢いづいた早川は日本開発銀行から2億円の融資をとりつけ工場を新設すると
佐々木は利子が発生しない2年のうちに返済を目指すと宣言する。
義経鵯越のごとく佐々木は号令をかけて
不可能と思われていた難題に取り組み
早川は本当に2年たたないうちに返済を完了してしまう。
儲け損ねた融資先の銀行からは不興を買うが佐々木は涼しい顔で受け流す。
そしてCS-20Aのヒットで早川は
電卓の国内シェアを50%を超すまでに伸ばす。

当時磁石を使ったリレー(継電器)を使用した計算機を製作していたカシオ電機は
早川の成功を受けて、トランジスタ計算機の開発に乗り出し
1965年、メモリー付の計算機カシオ001を38万円で発売し、早川に対抗する。
それに対して早川はICを使った電卓CS-31Aを1966年に35万円で発売する。
重さは13キロで、CS-10Aの25kgに比べる重さはほぼ半減させた製品だった。

佐々木は、工場の新設に伴い家族用の寮の設計も手掛けるのだが
その過程で金属酸化膜半導体(Metal Oxide Semiconductor)使用の着想が生まれる。
当時の技術ではMOSの大量生産は不可能と考えられており
佐々木のアイデアは浅田たちが青ざめさせるには十分すぎるものだった。
それらは何事もなかなかつたように佐々木は走り始める。
佐々木の発案に対して国内の企業はどこも応えることができず
アメリカで航空機製造で名をはせていたロックウェルに佐々木は足を運ぶ。
佐々木は、そこで3百万個のチップ、3千万ドルという早川の資本金を
超える巨大なオファーを出して副社長のコヴァックの度肝を抜く。

佐々木がアメリカで交渉しているころ日本では、
早川入社2年目の吉田幸弘MOSと格闘を開始する。
吉田は物理と数学に強い変人でそれなりに優秀だったが
家から近いという理由で危ないと噂された早川に入社していた。

吉田は、日立の大野稔から四則演算に必要な4000個のMOSを買い付ける。
大野稔はMOSの構造から将来性を見抜き独自というり孤立しながら
日立でMOSの研究をしていた技術者だった。
結果的に大野稔はアメリカの大手企業ができなかったMOSの開発を
一人でやり遂げてしまうのだが、当時彼の偉業は国内では
誰も理解できなかったというくらいぶっ飛んでいた。

吉田はそんな大野から買い付けたMOSを使い
3日間ぶっ通しで回路を組み込み、試作機の製作を成功させる。
4000個のトランジスタに不良品が一つもなかったことも驚異だが
4000個の部品を一つの間違いのない回路に組み立てた吉田の作業も
驚異以外の何物でもなかった。
そして、それは敗戦国日本とあなどっていたロックウェルの技術者を
驚愕させるには十分すぎる代物でもあった。

吉田は試作機を作成した後、佐々木とともにロックウェルで
アポロ計画に使用するMOS-LSIの開発に取り組む。
そこで佐々木は突飛なアイディアを次から次とだしては
ロックウェルの技術者を驚かし、ロケットのようだと言わしめるほどの活躍をする。
早川は1969年にMOS-LSIを使用した電卓QT-8Dを
9万9800円(重さは.4kg)で発売する。その宣伝には
アポロが生んだ電子技術云々とのとコピーが使われていた。


1971年立石電機はオムロン800をQT-8Dの半額以下の4万9800円で発売して
電卓市場を大きな波を起こす。
これに対してカシオは一つの方向性を定める。
値段を1万にして100万台の販売を目指すのである。
1964年から10年で売れた電卓が1000万台であることを勘案すれば
それは国内の電卓市場をカシオが独占するにも等しいリスキーな目標であったが
カシオが生き残るための戦略としては必然の帰結でもあった。
カシオは表示を6桁にしたうえ、電卓を文房具として売り出す策略をねり
1972年8月にカシオミニを1万2800円で売り出す。
結果、一年半で200万台、三年で600万台を売る爆発的なヒットとなった。

1970年にシャープと名前を変えた早川の佐々木は
6桁のカシオに対抗する方策としてディスプレイと電源に目をつける。
当時の電卓はアメリカのバローズ社のニキシー管を使っていたが
高額のライセンス料をとっており、値下げの交渉には応じなかった。
シャープのディスプレーを研究していた和田富夫はテレビでアメリRCA
ダイナミック・スカッタリング・モード(動的散乱モード)という名称で
開発を進めていた技術に興味を持ち、佐々木に相談する。
佐々木は、RCAが製品化があきらめられた技術のライセンス契約を結び
液晶の研究を進めさせる。
表示速度の改善に難航したものの偶然の出来事から
解決の糸口をみつけた和田は開発を一気に進める。
浅田と鷲塚は単三電池で100時間稼働を目指し、省電化を進め
CMOS(相補型MOS)の使用、ガラス基板に直接イリジウムの配線を行うという
世界初の技術を盛り込みEL-805を1973年に販売する。
サイズは、78mm×118mm×20mmで重さ200g、値段は 2万6800円だった。
カシオミニは、重さ315gで 厚さ42mmに比較しても
衝撃的な製品で、この発表で50社前後が乗り出した電卓市場は
シャープとその競争相手としてカシオだけがかろうじて生き残ることになる。
また、そのカシオもシャープの脅威の技術力を目の当たりにして
電卓以外での分野を指向する。

シャープは さらに65gのEL-8130を1977年 8500円で発売し、
13年続いた電卓市場の激烈な競争にピリオドを打つのであった。