活字


以前に拙作を掲載した某官公庁の機関誌に三度、原稿を投稿。
三度目にして初めてPDFファイルでゲラ刷りを確認した。


ゲラとは、製本等する前に
編集に携わる者たちが文章や記事のレイアウトを最終確認するための
試し刷りのことである。
一般にもワープロ機が普及し始め、
新聞を含め活字を組まない印刷物が
当たり前となって間もない頃の学生時代、
学校新聞の発行に携わり、
印刷所でゲラ刷りをチェックしたことが何度かあるが、
印刷所から遠く離れた自宅で、
ゲラをPDFファイルで確認できる日が来ようとは
二十数年前には想像もつかなかった。



小学生の時分、見学に行った「いはらき新聞社」の印刷所では
活字が組まれていたし、
家では高校の教諭であった父が
活字を組み込んだタイプライターで
試験や通知を打っていた。


物心がつく頃、自分の回りには当たり前のように
活字があり、活字の印刷物がふんだんにあった。


だが、今やワープロでさえ
職場や家庭から消え去り、
安価なパソコンがそこかしこにあふれ
小中学生がDTP(デスクトップパブリッシャー)で
小綺麗なデザインのプリントを作れる時代となった。
活字を使わない活字が社会に満ちあふれている。



自分がこうして文章を編み、ブログで発表できるのも
時代の恩恵とも言えるが
もうちょっと遅く生まれてきたら
デザインやイラスト分野で活躍できたと
思うことがしばしばある。


しかし、ゲラを手にして活字の存在に気づき
かつての活字を組む労力の大きさに思いを致せば
自分の拙さ、未熟さを思いしらされる。



幼少の頃、活字に触れたということは
存外幸せなことだったと今更ながらにして思う。


ふと四年前の北京が思い出される。
テレビでみたオリンピック開会式の
活字にふんした兵士のパフォーマンスを思い描きながら
絵本を抱く幼子達が活字というものを
理解できるはいつぐらいだろうか、
活字に込められたそれぞれの思いに気付くのに
あと何年かかるのだろうか、と考える。
願わくば、文字とともに道を歩からんことを、と一人ごちる。