安全と卑劣

文藝春秋コラムに塩野七生が連載されている。
そのコラムに目を開かされる思いがした。

コラムの記事は、彼女がイタリアから日本に戻ってきた時の
日本の状況についてだった。
曰く、震災直後「がんばろう日本」と呼びかけながら
福島産の農作物の流通、京都大文字の松明、福島の花火
果ては宮城、岩手の瓦礫まで拒否する一連の放射能騒動に
衝撃を受けた、と。

事情の知らない外国人が日本人を差別しているのではなく
日本人が被災から立ち上がろうとする同じ日本人を
差別している現実に強い嫌悪感を滲ませていた。


イタリアの刑務所にいる中国人犯罪者は自身が捕まるリスクを
背負って犯罪を犯しているのに、
日本の「安全」を求める市民らは、顔を見せない加害者として
「安全」な場所から農産物の販売や車両の乗入れを拒否するなど
福島とその近隣の住民を差別しているヒステリックな構図を
卑劣と断じていた。


ガイガーカウンターを持って近所を
計測しまくるヒステリックな主婦達に
それを煽るような軽薄なマスコミ。
「想定外」をを免罪とする無責任な為政者と電力会社。
そこには震災直後、国外の人間が絶賛した日本人とは
あまりにもかけ離れた姿が人々の耳目を集める。


女史のコラムは、3.11で安全神話が崩壊したのを契機に
安全に過剰な期待をする姿勢を終わりにすべき、との提言でまとめられていた。


思えば、リスクの要素を排除することのみ腐心し
保証された結果ばかりを求める昨今。
人間の知識と科学は、驚ききと神秘に満ち溢れた世界の前では児戯に等しい
それを示したのが今回の大震災ではなかったのか。

凝り固まった思考で生きることの愚かしさと危うさ、
なによりその味気なさを思い起こすべきではないか。


守るべきは己の安全か、日本人としての誇りなのかを。