空の勇者


私がその勇者とあったのは昭和40年の始めだったと記憶している。
警視庁警備係第一課長になる少し前のことだった。
正確な日付は忘れたが、そのときの光景は今もはっきり覚えている。


「佐々木さん。私はこういう者です」
私は、目の前中肉中背の礼儀正しい穏やかそうな紳士から
頂いた名刺の名前を読み上げた。
「志賀淑雄さん?」
「はい、志賀と申します」
志賀淑雄という名を聞いて、一つ思いあたることが私にはあった。
「失礼ですが、もしかしてハワイ空襲の
空母『加賀』の零戦制空隊長の志賀さんですか?」
「はい。その志賀でございます。こうして生き恥をさらしております」
私の体に電流が流れた。
海兵62期、源田サーカスと呼ばれた海軍戦闘隊の超エースの一員。
ハワイ空襲以来、南太平洋の主戦場を戦い抜き、
終戦間際松山の343空で飛行隊長を務め、
米軍をしてこれほど強いパイロットが
まだ日本に残っていたのかと驚嘆せしめた生ける伝説が目の前にいるのだ。
戦後、著名なエース達は航空自衛隊に入隊し、
幕僚長、参議院議員など栄達したのに対して
野に下って警察の装備関係の会社を起こされたと聞いていたが、
こうして会う機会があろうとは、夢にも思わなかった。


私は氏を尊敬していた。その理由は彼の戦歴もさることながら、
伝え聞いた彼の人格によるところが大きい。
麾下の零戦隊から特攻志願者を差し出せと
高級幕僚が命令してきたのを断固拒否し
「どうしてもいうなら私が征く。
 その時は参謀殿貴官も私と一緒に征け。」
という氏の硬骨漢ぶりを初めて聞いたとき胸が熱くなったものだ。
しかし、目の前の紳士はそうした雰囲気を
感じさせない穏やかで静かな人であった。
しばらく尊敬する氏と談話した後、
長年疑問に思っていたことを口にした。
「なぜ航空自衛隊に入らなかったのですか?」
氏は少し俯きながら、視線を外して答えた。
「多くの部下を戦死させた私のできることは、
 彼らの菩提を弔うことと 生き残った戦友たちや戦死者たちの
 生活の面倒をみることです。
 空戦中、敵機に後ろに廻りこまれて
 あわや撃墜されるかと思った時
 列機が間に割り込んで庇ってくれ、
 被弾炎上したその零戦の搭乗員が
 私に挙手の敬礼をして墜ちていきました。
 その姿が忘れらないのです」
私は、己のうかつさを恥じた。
自分ごとき若輩人間が訊ねていいことではないのだ。
生き恥と氏が言ったのは謙遜ではなく、心底そう感じているのだ。
私は己の非礼に気が付き、詫びた。
「いいえ、気になさらないで下さい」
幸いにも志賀氏は気にされた様子はなかった。私は安堵した。
有り難いことに、仕事において多大ともいえる協力を頂き、
氏に助けてもらったことは一度や二度ではなかった。


私が志賀氏と交誼を深めるようになって
二十年以上がたった昭和64年、
前年から体調を崩れされていた昭和天皇崩御された。
当時内閣安全保障室長を拝命していた私は
大喪の礼の治安警備担当を仰せつかった。
その中で殯宮祗候ひんきゅうしこうと呼ばれる恒例行事があった。
文武百官が交代で天皇の御柩を諒闇の「松の間」で
無言でお守りするお通夜である。
自分自身もそれに招待されたが、
祗候するに相応しい者を推薦せよと命じられ
躊躇なく志賀氏を推薦した。
今まで自分ごとき若輩者を手助けしてくれたことに
対する好意からだった。
志賀氏は否応なく承諾された。


年号が変わった平成元年1月21日
白いカーテン、御簾をめぐらせた天井の高い五百平米程度の
殯宮の螺鈿の黒椅子に
志賀氏は沈黙して祗候した。
祗候の役目を果たされた後控え室で熱い茶を氏に振る舞った。
志賀氏は、やや頬を紅潮させ
「はい、佐々木さん、ありがとうございました」
20年来の付き合いになるが、
この時ほど氏の晴れ晴れとした顔をみたことがなかった。
私は、この人を推薦して良かったと思った。
そのまま控え室でしばらく談話したのち、
彼の懐中にあった白い紙片が目に入った。
なんだろうと思い、氏に尋ねた。
志賀氏は、一瞬体をこわばらせた。


深く息を吸い込んだのち
「これは戦死した全ての零戦搭乗員の名前を認めたものです。
 私はこの名簿を懐に祗候し……」
彼は言葉を詰まらせた。
そして普段の冷静な氏から想像できないくらい顔を崩して言葉を続けた。
「心の中で彼らの……、彼らの……いさおしを陛下に
 ご報告致しました……」
 文武百官の列にお加え頂きまして、
 誠に…誠に…誠にありがとうございました」
私は、またうかつにも彼が大空で勇敢に戦った勇者を代表するに
最も相応しい人間であったことにその時初めて気が付いた
「志賀さん……」
私は目頭が熱くなるのを感じた。私はただ頭を下げ、何も言わず、
いや言えないまま彼の手を握った。