蒼穹の昴


蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

「汝は必ずや あまねく天下の財宝を手中に収むるであろう。」


蒼穹の昴浅田次郎


韃靼の星読みの老女の予言を信じ、自ら宦官になる道を選んだ春児
「挙人は天上の星に通じ、進士は日月をも動かす」と喩えられた厳しい科挙制度が
施行されていた時代、状元としてその頂点に立ち
光緒帝親政の変法運動に身を投じた梁文秀
列強が清の国土を貪り尽くそうとする激動の中で
それぞれがそれぞれの運命ほしを背負い懸命に生きていた。


作者の浅田次郎氏は、この作品を書くために作家になったという。
その謂いは、極道に身を置きながらも辛酸を極めた少年時代に
思い描いた作家になるという夢を諦めず底辺から這い上がり、実現させた自身の姿を、
主人公に春児に重ね合わせている部分が多分にあり
人間の才能には限りがあるが、努力には限りがない、
と述べたかった故ではないだろうか。


この作品も、他の浅田作品同様、独特の言い回しが使われ、
小説の雰囲気として中華らしからぬ趣を感じることがままあるが
それも、作者が自分の言葉で世に、人に、人生の意味を問いかけた結果の
文体ではなかったかと思う。
この「蒼穹の昴」が直木賞の候補に選ばれながら、
選に漏れた理由がそのあたりあるのだとすれば、本末転倒であると云わざるを得ない。
何故なら文学とは、文体の格調高さで競うものでなく
万人に訴えかける力があるかないかを競うものである。
従って、この作品を選ばなかったあるいは選べなかった選者達を
論語読みの論語知らずだと私は考える。
確かに、民主主義への安易な肯定など鼻につく青臭い思想も見え隠れするが
それらの欠点を補ってあまりある訴求力があるのだ。


人は身分や階級など関係なく、愛を知るために生まれて、愛のために生きる。
この作品も、浅田作品全般に共通するそんなヒューマニズムが根底に流れている。