スヴェトラーナ・アレクシエーヴッチ

思い出話は歴史ではない、文学ではないと言われる。
それは埃まみれのままの、
芸術家の手によっては磨かれていない生の現実の話だ。
語られた生の素材というだけ。
それぞれの人間にはそんなものはたくさんある。
いたるところに煉瓦は転がっているが、
煉瓦はそれ自体ではまだ寺院ではない、などと。
しかし、わたしにとっては全てが違っている。
まさにそこにこそ、まだぬくもりの冷めぬ人間の声に、
過去の生々しい再現にこそ、原初の悦びが隠されており、
人間の生の癒しがたい悲劇性もむきだしになる。
その混沌や情熱が。
唯一無二で、理解しきれないものが、
ここではまだなんの加工もされておらず、オリジナルのままである。

わたしは人々の気持ちの素材に寺院をくみ上げる……
わたしたちの願望や幻滅を。
たわしたちの夢を素材に

「戦争は女の顔していない」祥伝社 三浦みどり訳 19頁



数十年もたってから私が聞き取ろうとしているのは何だろうか?
私が心を動かされ、そして、驚かされるのは別のこと。
その時その人に何が起きていたのか。
生きるということについて、死というものについて、
そして、つまるところ自分について何を理解したのかということ。
気持ちの動きを書いている。……心の物語を書いている。
戦争のでも国のでも、英雄たちのでもない「物語」、
ありふれた生活から巨大な出来事、
大きな物語に投げ込まれてしまった、小さき人々の物語だ。

「戦争は女の顔していない」祥伝社 三浦みどり訳 58頁


私は途方にくれてしまった。
苦しみぬいた人間はより自由になる、
自分にしか従わないのでいいのだから、と以前は思っていた。
その人自身の記憶がその人を守ってくれる、と。
だが必ずしもそうではないらしい。
苦しみを知ったというそのことは決して触れることのない予備として、
あるいは多層の鉱石にまじっている金粉のように別個に存在するらしい。
長い時間かけてありふれた岩を磨きだし、
一緒に日常の雑事の積み重なった中を掘り返すと、
つにそれが光を放ち、価値を持つ!

「戦争は女の顔していない」祥伝社 三浦みどり訳 114頁


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数日前、スヴェトラーナ・アレクシエーヴッチが
ベラルーシを出国したとのニュースが
世界中を駆け抜けた。
「戦争は女の顔していない」を読んでいる最中に
配信されたニュースのタイミングに
ちょっと驚いてしまった。



さて、二十年以上前に執筆が
始まった「戦争は女の顔をしていない」は、
女性らが体験した事実の記憶が
素のような語り口の文体で記述されている。
おそらくは、翻訳者が作品の世界観を
伝えようと作為したのだろう。
読者は、戦争が彼女らの立場から
語られることによって、
作者の立ち位置を見つけることができる。


作者の言葉を借りるならば
彼女らの体験を煉瓦の一つ一つになぞらえ
大祖国戦争と呼ばれた戦争を寺院として
仰ぎ見ることができるうように丹念に
取材を重ねていたであろうことが読み取れる。
作者自身の考えや取材の委細についての記述が
数えるほどしか挿入されていない、のだが。


そして、おそらくは
取材した数の分だけ、出会いがあり、
新たな物語が生まれていただろうが
そうした邂逅の描写は、
最小限にとどめられている。
それはあたかも
敬虔な信徒が自らの手によって築いた寺院は
多くの声によって建立されたものである、
と示しているようでもある。


人間の原初の感情と現実との関係性について
深く鋭い考察が、時に筆者の感想として
しおりのように挟まれているが
長く忘れ去られた、
あるいは記憶の奥底に深く沈められた
女性たちの心の叫びが、小さな声が
作品に深く丁寧に編み込まれている。
それらは生の素材のままの集合体ではあるが、
栄光や名誉という為政者らの虚飾を排した
戦争文学の傑作であり、
ソビエトの戦争の歴史を
庶民が語る唯一無二の証言集となっている。


作品の個人的な印象を
蛇足として付け加えるならば
大祖国戦争に従軍した一事のみを鎹とした
多くの小さな物語を積み上げたこの作品から
ロシア文学のような風を感じることができる。