慟哭

15日の産経新聞には、
作詞家の阿久悠氏が終戦記念日と呼ぶべきか敗戦記念日と呼ぶべきか
ということについて意見を述べていた。
戦争に勝った日を記念日にしている国は数あれど、無条件降伏を受け入れた日を
記念日にしている国は日本をおいて他にはない。
しかし、戦争で散華した方々の御霊を慰撫するに
相応しい日はこの日をおいてないのかも知れない。
作詞家の阿久悠氏は、8月15日を終戦でも敗戦でもなく
新たに生まれ変わった日、第二の誕生日と位置づけていたが
私は、日本が慟哭した日と受け止めるのが相応しいと思う。



天皇陛下は、戦没者追悼式で「戦争で命を失った人」と仰られたが、
私は、あえていう「戦争に身を捧げた人」である、と。
空爆などの犠牲者を除き、彼らは、無理矢理国家の犠牲になったのではない。
彼らは、尊き命を国家に捧げた神にも等しい存在である。

日本はまことに危機である。
この危機を救いうるは、大臣でも大将でも、軍令部総長でもない。
ちろん自分のような長官でもない。それは諸子のごとき純真にして気力満ちた若い人たちである。
したがって自分は、一億国民に代わって皆にお願いする。どうか成功を祈る。
皆はすでに神である。神であるから欲望はないであろう、
が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが無駄でなかったかどうか、
それを知りたいことであろう。
しかし、皆は永い眠りにつくのであるから、
それを知ることはできないし、知らせることはできない。
だが、自分は、これを見届けて、
必ず上聞するようにするからそこは、安心していってくれ。しっかり頼む。

特別攻撃隊創始者大西滝次郎が攻撃隊を送り出す時に、こう訓示を述べた。
大西中将が特攻する隊員達を神と表現したように
神でないものがどうして自分の身を捧げることできようか。
ジャーナリストの工藤雪枝女史が著した「特攻へのレクイエム」を読むとき
生きながらにして神になって方々の至純に涙がとめどもなくこぼれてしまう。


特攻隊だけではなく、この戦争で命を捧げられた方の殆どの方が
同じ気持ちでいたのではないかと思う。
でなければ、敗戦濃厚となった戦争末期において、
南方で、北方で、空で、海で、奮闘し、連合軍の心胆を寒からしめることができたのかを
説明することはできない。
彼らは、残る人達に後は頼むと言い残して散華したことを思えば
これもまた、民族の誇るべき美しい姿であったと思う。

終戦後間もなく、割腹自殺した大西中将の遺書には、

特攻の英霊に申す
良く戦いたり。深謝する。最期の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
しかれどもその信念はついに達成し得ざるに至れり。
われ死をもって旧部下と遺族に謝しせんとす。

と書かれていた。

その散り際の鮮やかさに、平伏する他はない。


小説太平洋戦争の作者・山岡荘八は、大西中将の自決をもってこう述べる。
口先だけの軽薄な人権論者は、この捨て身の大勇に徹した人間愛の前に愧死すべきである、と

戦没者の方々は、侵略戦争の尖兵として犠牲になったのではない
国を守るために、その身を捧げられた神である、
少なくとも私は、そう信じる。


特攻へのレクイエム