武士道の悲しみ


今頃取り上げるのもなんだが
民主党の岡田君が今月中頃、国会で戦争責任について質問していた。



産経ニュース

A級戦犯 「国内法で犯罪人ではない」 民主「口頭試問」 安倍・麻生氏見解


 先の戦争は自衛戦争だったのか、戦争責任は誰にあるのか−。そんな議論が十四日の衆院予算委員会で、安倍晋三官房長官麻生太郎外相のポスト小泉候補二人と岡田克也民主党前代表の間で交わされた。質問に立った岡田氏は、「A級戦犯」を「戦争犯罪人」とした極東国際軍事裁判東京裁判)の有効性を主張したが、安倍、麻生両氏はそろって、「国内法では、A級戦犯は犯罪人ではない」との見解を示した。


 岡田氏はまず、先の大戦について「自存自衛のための戦争でやむを得なかったとの見方があるが」と麻生氏にただした。麻生氏は平成七年の村山談話や昨年四月の小泉純一郎首相のスピーチに触れながら「自衛の戦争だと申し上げたことはない」と否定した。


 しかし、質問が東京裁判の有効性とそこで断罪されたA級戦犯に及ぶと議論は白熱。「A級戦犯は国内法で裁かれたわけではない」と答弁する両氏に対し、岡田氏は「東京裁判は国内法を超越する超法規的というか、それに上位する概念だ」と反論。東京裁判国際法上の有効性に疑念をにじませる二人との基本的な認識の違いが浮き彫りになった。


 A級戦犯についても麻生氏が戦後、勲一等を受章した重光葵元外相もA級戦犯だったと指摘。安倍氏も国会決議を経て「国民の圧倒的な支持のもとに」連合国との折衝の結果、A級戦犯らが釈放されたことを説明したが、岡田氏は納得しなかった。


 さらに、岡田氏が「日本国として、東京裁判を受諾している以上、そのことに拘束されるのは当然だ」と主張すると、安倍氏は、ため息をついて「岡田先生は何かまるでGHQ(連合国軍総司令部)側に立っておっしゃっているように聞こえる」と答弁していた。


他人の歴史観をヒダリだミギだと論じて批判する気はないが
日本人の立場で物事を言えない人間が何故日本の国会議員のバッチをつけている?
東大で銭勘定しか習って来なかったのか?といいたくなるような元党首の質問である。
彼を選良として投票した人間の良識を疑いたくなる。


数日前にDr.マッコイ大東亜戦争についてエントリーし
特攻隊の方々について雑感を述べられていたが
大東亜戦争を一言で総括し、その内容を正確に伝達することは正直言って難しい。
戦争を、しかも負ける戦争をしないのは賢明なことだ。しかし、
負けることを覚悟で戦争に踏み切らざるを得なかったその要因を無視して
戦争の是非や責任を論じても始まらないような気がする。
それによりも負ける戦い承知で、死ぬを覚悟して如何に勇敢に日本人が戦ったかを
語り継ぐのが日本人としての立場だと自分は思う。
個人的には、去年3月26日産経新聞に掲載された新地球日本史
「運命を自覚した武士道の悲しみ」の短文が自分の感覚にしっくりしている。

新渡戸稲造が『武士道』(英文)を出版したのは一九○○(明治三十三)年。彼が少年のこに体験したのは明治維新による武家社会の解体と武士道の衰微だった。だが、昭和の国難のときには、多くの青年が出自とはかかわりなく武士道の末裔として空に海に散華した。国家的規模での武士道のよみがえりである。その日本人の戦い振りに衝撃を受け、哲学的に思索した西洋人がいる。
「民族が生きていきたいと欲するのであれば、その子供たちに正しい死に方を教えるべきだろう。死を恐れる者は敗者として死ぬが、死を恐れぬ者は勝者として死ぬだろう」(モーリス・パンゲ著『自死の日本史』)


パンゲは日本における「自死」の系譜をたどることによって日本文化の本質に迫った。西郷隆盛自死乃木希典の殉死など高貴なる精神として論じ、終戦直後に自決した阿南惟幾大西瀧治郎ほか特攻した兵士を含めてすべての自決者に深い理解と敬意を表している。
「運命というものはただ単に人間にふりかかって来るものだけではない。運命を愛し、運命にうち克つことを知らなければならない。『運命への愛』、それによって初めて心の平静は得られる(同)運命を自覚し、それに「うち克つ」べく戦い、その結果を運命としないかぎり「心の平静」は得られない、という意味だ。


戦後の日本人は「近代日本の運命」を自覚せずに選択のレベルで歴史を考え、「あのときこうすればよかった」といって先人を裁くことばかりしてきた。歴史の裁判官気取りだった。いわゆる「東京裁判史観」がそれである。


しかし、運命を自覚せねば歴史を愛せない。パンゲは最終章で『英霊の声』の代弁者たる三島由紀夫「真実の意味武士道の後継者であり、ニヒリズムの敵対者なのだ」という。林房雄が『大東亜戦争肯定論』の連載を始めたころ東京オリンピックが開かれる。そのとき林はアジア諸国のたくさんの国旗がはためいたことに感慨を覚える。もしあのとき「ハル・ノート」を受け入れて戦争を回避していたら、こういう光景はなかった。


昭和二十年四月、ルーズベルト大統領死去の報に接し、ときの総理大臣鈴木貫太郎は弔電を打つ。武士道精神の発露にほかならなかった。このエピソードは戦後、米国人からも高く評価されたが、日本人としてはそこに武士道の悲しみを感じざるをえない。

たとえば、すべての史家が日本は勝てない戦争に突入したと書く。軍事力と経済力の彼我の差を冷静に判断し、合理的に考えれば、敗戦必死だと。しかし、昭和の武士道精神は、その物質的合理主義を道徳的にエネルギーによって超克せねばならないと考えた。合理主義に道を譲ったら日露戦争だって戦えなかったと。武士道精神の高揚が日本外交を拙劣なものにしたともいえる。外交に必要なタフなネゴシエーターもマヌーバー(策謀家)もプロパガンダも武士道精神からは生まれがたい。パリ講和会議において、たったひとり人種差別の撤廃を白人諸国に迫るというのも、いかにも武士道だ。「義を見せてせざるは勇なきなり」の孤軍奮闘だった。


日英同盟の廃棄を承知でワシントン体制に囲い込まれたことも、多国間協調体制という大義名分を信じたサムライ精神だったのではないか。満州国建国に際しての「五族協和・王道楽土」という言挙げも、当時の国際環境に照らしてみれば、あまりにも高潔すきる理想であった。それ故に米国の「明白なる天意」と正面衝突せざるをえなかったのである。このように、リアリズムの欠如は明白だったが、武士道にリアリズムを求めても詮ないことといわねばならない。ドン・キホーテにリアリズムを求めるようなものである。

林房雄は肯定論の末尾近くで「たしかに戦争には敗れたが、百年の運命に堪え、歴史の使命を果たした日本国民に何の恥があろうか!」と記した。私はそこに「武士道の悲しみ」という一言を添えて納得する。
拓殖大学日本文化研究所所長 井尻千男


虚偽メールを使ってでも自民党に勝とうとるす民主党の面々には
武士道という概念は理解できないのかも知れない。