ソウちゃんとタケちゃんの夢4

「ヨシ、もう一遍いってみろ」
「ノブのアニキの作ったエンジンは古いといったんです」
 アニキの目が大きく見開いていた。ヨシはノブが本気で怒っていることが分かった。
昭和60年2月、世界一を目指して四輪のフォミュラーレース最高峰に挑んでいた会社は壁にぶち当たっていた。研究所のナンバー2になっていたノブのアニキが会社の役員を説得してレース復帰の段取りつけてから3年、会社は捗々しい成果を残せずにいた。昭和36年マン島TTに勝利し、その後バイクレース全クラスで年間優勝を果たした会社は、四輪の最高峰レースにも昭和39年から5年にわたって挑んだ。その頃、二輪と四輪の両方のレースでエンジンづくりに携わったエンジニアは数人いた。ノブのアニキもその数人のうちの一人だった。

 二輪は参戦して3年で初勝利をもぎ取り、その年に年間優秀、つまりは世界一の座を獲得したが、四輪最高峰のレースでは、5年間で2勝したのみで主役の座をつかむことなく舞台から降りていた。世界一ははるかに遠かったが、届かない目標とは思えなかったとノブのアニキは言っていた。しかし、昭和40年代になるとオイルショック、排ガス規制と自動車業界を取り巻く環境が一気に変わり、それまで突っ走ていた会社の勢いは急速に衰え、若手のエンジニアをレースで鍛える余裕は消えた。オヤジが掲げた世界一への挑戦は、その入口に立つこと自体が困難となった。道半ばでの撤退はオヤジとしても不本意であっただろうし、現場で躍起になっていたアニキたちの口惜しさも筆舌に尽くし難かっただろうとヨシは推測した。実際、撤退が決まった頃、アニキはレースの世界にどっぷりつかっていて、会社を辞めてヨーロッパのチームに加わりレースを続けようとしていた。レースの現場責任者で四輪レースの元締め的存在であったナカさんは、引き留めるどころか「俺も若けりゃなぁ」とノブのアニキを羨ましがった。

 そんなアニキを引き留めたのが、今の社長であるタダシの大アニキだった。「会社の仕事をこなしてさえいれば、社外でレース活動してもいい」という条件で慰留したとのことだった。アニキにしてみれば、格落ちのレースとはいえ勝負できるのであればしばらく我慢してやってもいいか、くらいの気持ちだったらしい。
アニキを納得させたそのタダシの大アニキも若いころはレースにどっぷりハマっていて、会社が最高峰クラスに挑戦する以前に、国内のあちこちのレースで手伝いと称してエンジンのチューンナップしたり、パーツを横流して結構なヤンチャをしていた。ウチの車のユーザーならオヤジやオジキも黙認していたが、ライバル社の車もチューンしたというから、ヤンチャをするにもほどがある。ヨシが入社したころ、大アニキはレースの現場から離れていたが、オジキにワビを入れて事なき得たことは会社の技術者の間で伝説と化しており、ヨシも勝負にこだわる大アニキを尊敬していた。本当に三度のメシより勝ち負けが好きな連中ばかりが集まっていた会社だった。

 そんなヤンチャだった現社長のタダシの大アニキは、ノブのアニキを後継者に考えているらしく、研究所のナンバー2にして本社に役員の椅子を用意した。役員なんて柄じゃねえと断るアニキに、レースの続きをやりたきゃ、黙って受けろと無理やり座らせた。意にそぐわなかったとはいえレース好きのアニキが会社の事業計画に公然と口を挟める立場になったことで、四輪レースの再挑戦は会社の規定路線となった。アニキは役員になって2年で、レース再開のための大名分を整え、会議で予算を分捕り、チームを発足させ必要な資器材やレースパートナーの手配などを指示して、陣容をほぼ最短時間で作り上げた。しかし、計算高いアニキも一つ見込み違いがあった。それはエンジン設計者の手当がつけられなかったことだ。当時会社は新車の発表が延々と続く時期であり、社内にいたエンジン設計屋のスケジュールは2年先までほぼ埋まっていた。だったら、レースに復帰する時期を少しずらせばいいのに、その少しを我慢することがアニキにはできなかった。結局、アニキが自分でエンジンの図面を引いてレースに復帰することにになった。曲がりなりにも上場企業の役員だから、そんな暇などあるはずないのだが、レース復帰をプレスリリースする頃には図面をほぼ完成させていた。18年前の設計をベースにしたエンジンを現行のレギュレーションに合わせだけのシロモノだったかもしれないが、それでも簡単にできる類の話ではなかった。

 ヨシに言わせれば、ノブのエンジンは埃と錆にまみれた設計思想だった。ヨシはそれをノブ本人に古いと伝えたことで罵声を浴びせられた。ただその古いエンジンが昭和59年のアメリカの市街地開催レースで勝利を勝ち取っていたのだから恐れ入る。勝利を悦ぶより、アニキのエンジニアの腕に舌を巻かざるを得なかった。だが、1勝しようが古いものは古い。エンジンで生じる排出ガスでタービンを回して、エンジンに入り込む気化燃料を増量させ、燃焼によるパワーを増幅させるターボ・エンジンは、高回転で高出力を目指した時代の設計と根本的に違う。回転数の高低よりも、全体的なバランスが重要となっっていた。コーナーとかエンジンの回転が落ちる時に出力が極端に低くなる欠点を克服できない構造の古いエンジンでは、他社のエンジンに勝てる目はない。ノブのアニキが設計したエンジンが勝利した理由は、天候やコースレイアウトの関係でエンジンの差がつきにくく、かつドライバーが市街地を得意としていたことに助けられた部分が大きかった。それ以外のクローズド・コース、つまり普通のサーキットでは他のメーカーのエンジンとの性能差は明らかとなり勝負に持ち込むことすらできなかった。

「高回転、高出力のエンジンのどこが悪い」オヤジは、15年前に引退したがオヤジが目指したエンジンの回転数を高めて、高馬力を追求する考えは会社のお家芸になっていた。車体の軽い二輪車はそれで問題はなかった。しかし、重い四輪車では通用しない。タイヤが余分に2個ついているだけでなく、エンジンからの出力をタイヤに伝えるシャフト、ドライバーのシート、ベルト、流線形のボディ、タイヤの接地効率を高める羽根、そして強烈なGが加わる車体の剛性を支える補強材、そのいずれもが極限まで軽量化が図られているが、規定で総重量を500キログラムをいくばくか越えることが定められていた。これに燃料やドライバーの体重が加わる。レース全体では最高馬力を出せる時間と区間はごく限られており、500キログラム以上の物体の加速と減速を絶え間なく繰り返す時間の速さが求められていた。

最高峰のレースといえども、最高出力ではなく回転数が変化しても出力を滑らかにできるエンジンの方が強いのである。レースに勝つためには会社従来のものと別なロジックが必要だった。それはオヤジから続いている高回転エンジンとの決別を意味した。最高峰のレースで低迷が続く現状を見かねて、アニキが緊急のミーティングを設けたが、怒り出したアニキが席を立ったため、会議はお開きとなった。

ソウちゃんとタケちゃんの夢3

「ソウちゃん、世界を目指そうよ」オジキの言葉を続けた。
「……」オヤジは目を瞑った。
「会社にはでっかい夢が必要なんだよ。うちの会社には技術もある、日本に貢献するというソウちゃんが掲げたぶっとい芯もある。あとは大きな目標があれば、会社はまだまだ伸びる。」
「……」オヤジは黙ったままだった。
「あんたと5年やってきた。その俺がいう、あんたの器は大きい、あんたに合わせた会社を作りあげるから世界を目指してくれ」オジキの言葉にかみしめたあとオヤジは「……わかった、タケちゃん世界一の会社を作ってくれ」といった。

自分で製作した自動車で、全世界の自動車競走の覇者となる……同じ敗戦国であるドイツの隆々たる復興の姿を見るにつけ、わが社の此の難事業を是非完遂しなければならない。
日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。わが社の使命は日本産業界の啓蒙にある。ここに決意を披歴し、TTレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。右宣言する。

 オヤジは、オジキに世界一の会社を作ってくれと頼んだ1週間後、社内と関連会社に世界を目指すこと宣言文を発表した。戦争特需の終わりとともに勢いだけあった会社が日本の産業界からポツポツと消えていた時期、ウチの会社もそうなると思う人間も少なからずいた。事実、従業員、関連会社、メインバンクのどれか一つでもそっぽを向けば、そうなっていてもおかしくはなかった。そんな会社から唐突に飛びした世界への宣言は、はた目には悲壮な覚悟というよりも滑稽な三文芝居に映ったことだろう。しかし、世界一を目指すという目標は、現場で働く従業員の肌に浸透し、長い時間をかけて会社の血肉となった。ただ、それがわかるには20年以上の時間を必要とした。

 昭和29年3月末、怒涛の決算期をどうにか凌いだ後、オジキはオヤジをイギリスへ送り出した。オヤジのイギリス遠征は2か月に及んだ。5月に開かれた株主総会は社長不在のまま迎えた。オジキに言わせれば、社長が外遊するくらいの余裕があれば倒産するわけがないと、株主や関係者が勝手に思い込んでくれることを期待して送り出したというものだったが、嘘の下手なオヤジが馬鹿正直な発言をして余計な仕事を増やさないための段取りだったと穿った見方をした古参の社員もいた。案の定、株主総会では厳しい質問が飛び交い、解任動議が採決されてもおかしくない不穏な雰囲気が流れることもあったが、過剰ともいえた設備投資に対する効果は遅くとも来年のアタマには現れてアンバランスな収支も改善できる見込みであることをオジキが粘り強く丁寧に説明して、メインバンクがオジキの計画を支持したことでなんとか持ちこたえることができたらしい。最後は、2年後のマン島TT出場を宣言し、会社の更なる前進を約束して締めたということだった。倒産の何歩か手前にいった会社が世界進出など、株主にしてみれば正気の沙汰とは思えなかっただろう。とりあえず自信に満ち溢れた言動、世間ではハッタリともいう高等技能を駆使してオジキは総会を乗り切った。ただし、そのあと疲労困憊で1週間ほど起き上がれなくなった。決算期前からのこの期間、相当の心労がオジキにかかっていたことは誰の目にも明らかだった。

 社内のあらゆる部署に神出鬼没しては火を吐くオジキと現場でいつもカミナリを落とすオヤジの二人がいない会社は、静かで仕事に集中するにはうってつけの状況だったが、ほとんどの社員はどこかぎごちなく、仕事にさほど身が入っていなかった。騒がしすぎるのもこまりものだが緊張感を欠いた業務も効率が上がらないことを社員は学んだ。だがそうした状態も長くは続かなかった。オヤジ帰国するとの電報がロンドンから届いたのだ。6月に入るとオジキも顔を出すようになり、会社の雰囲気がビリっと締まり、以前のように社内のあちこちで持論をまくしたて活発に議論する社員が出没し、この会社らしい喧噪な空気が戻ってきた。オヤジとオジキのいない会社は、普通の会社みたいで居心地が悪かったという社員は少数派ではなかったらしい。

 オヤジは、大量のバイク部品を土産がわりに持ちかえった。空港でオヤジを出迎えたオジキは「もう大丈夫だ」と告げた。オジキの言葉にホッとしたような顔したオヤジは「そうか」といって、オジキにネジを渡した。
「なんだ、これ?」それはオジキがみたことのない、日本で使用されているものとは違っていた。
「イギリスの工場に落ちていたネジだ。十字に溝が切ってあるだろう。溝をそうやって切っておいて機械で締める。……世界との差は大きいなぁ……」自信家のオヤジとは思えないほど控え目で謙虚な言葉だった。
「そうか」とオジキは答えた。「でも、戦うんだろ」
「当たり前さ」オヤジは、かっかっと笑った。

ソウちゃんとタケちゃんの夢2

 会社のただならぬ様子にオヤジも気づいていたが、経営に関して何もオジキに注文を付けなかった。「任せるといった以上、潰れようと無一文になろうとその結果を受け入れるのが筋だ。」といって、エンジン・トラブルの原因追及や商品の改良だけにかかりっきりだった。

 会社が倒産の瀬戸際に追い込まれ、眠れぬ夜を2週間ばかり続けたオジキは、腹を決めた。ウチの会社が日本の未来とともにあり世界が必要とするならば道は開ける。できることを精一杯やってみよう、と。

 従業員にも会社が危ないとのうわさが届き、現場に重い空気が漂い始めたころ、オジキはすべての工場に出向いて、全組合員を集めて告げた。
「売上が回復するまで生産ラインを一部休止する。その間、申し訳ないが給料を減額させてほしい。もし、この提案を組合が受け入れてくれなければ、会社の存続はままならなくなる。」組合員の予想を上回る単純かつ率直すぎるオジキの言葉に殆どのものは色を失った。
「売上が回復する見込みはあるのか」一人の組合員が青ざめた顔の震えた声でオジキに尋ねた。オジキはやや上を向いて一息いれてから力強い言葉で答えた。
「必ず回復する。」そしてオジキは言葉をつづけた「退職したいものは申し出てくれ。君たちは会社の財産であると同時に日本の財産だ。一時的とはいえ無為徒食の徒のような境遇に甘んじるより、日本を復興させるため別な場所で働くことを望むのであれば、それを阻むことは経営者たる者のとるべき道ではない。今回の会社の危機の根本は、経営者たる我々の見通しが甘かったことにある。社会環境の変化を予測できなかった経営者の失敗であり、国の未来を担う君たちに責任はない。我々の失敗を許してくれとはいわない。ただ、もう一度信頼するチャンスをくれるのであれば、全力でそれにこたえる。」会場は静まりかえった。組合がオジキの提案を断れば会社の存続は危ういものになる。会社の未来が組合に委ねられたという事実の重さが組合員を凍らせた。オジキにとって沈黙の時間は無限とも思えた筈だ。

 オジキの正面に座り、最前列でみつめていた労働組合の代表者が目を瞑った。長い深呼吸してから目を開き、まっすぐオジキの目を見すえた。そして頷き、両手を合わせて沈黙を破る音を響かせた。オジキの言葉に対して信任する意志を示した拍手は、瞬く間に会場全体に広がった。そこにいた全従業員はオジキを信じることに同意したのだ。オジキは震える声で「ありがとう」といった。


 組合の了承をとりつけた後は、オジキは部品を収めてくれる会社との交渉を開始した。関連会社を一同に集めて、これまた財務の状況を包み隠さず話してから、部品納入の継続と支払い期限の先延ばしを願い出て、また手形を振り出さないことについて理解を求めた。
「身勝手な言い分だとは重々承知しております。しかし、ここに至ってはここに集まってくれた皆様の協力なしには弊社の存続はあり得ません。この会社が日本の復興に必要だと思って下さるのなら、この会社を助けてください」と。代金の支払いも満足にできない会社は、見捨てられても当然であったが、オジキの裏表のない言葉に多く会社が要求をそのままのんだ。

 そしてオジキは、銀行にも正直に財務の状況を話した。銀行の担当者からは「なんでそんな高い工作機械を買ったんだ、身の丈を弁えなかった失敗はないかという指摘に「仮に会社がつぶれても、工作機械は日本に残る。この機械が日本の成長を助けて、結果的に国民が幸せになるのなら、失敗ではありません」と答えた。そして「世界一を目指す我々には必要な機械だから、買いました。今は支払いに事欠くちっぽけな会社ですが、御行の助けでこの窮状をしのぐことができたら、十年後、わが社はエンブレムともなっている翼とともに世界に羽ばたいていることでしょう。」と眼に力を込めて訴えた。

 銀行の担当者は町工場に毛の生えたような会社の専務から口から出た世界一との言葉に驚いた、そして笑い出した。「会社が大きくなったら返すから融資してくれという申し出はいくらでもあったが、世界一になるから金を貸してくれというのは初めてですよ」と追加融資をその場で決めてくれた。

 オジキが金策に奔走していた頃、オヤジはエンジン・トラブルの原因が燃料を送り込む気化器にあることを突き止め、問題の収拾に目途をつけることに成功した。社内にいろいろと意見もあったが、オヤジはリコールを通産省に届け出ることに決めた。商品に欠陥があった会社として世間の評価が一時的に下がり、改修の費用も大きくなるが世界一になるメーカーが些細な過誤すら認めずもみ消すような真似はできないということで下した決断だった。リコールに1億円程度が見込まれた過誤を些細と言い切るオヤジは、どこか頭のネジが緩んでいると会社では噂したが、オジキがわたりをつけた銀行の追加融資でまかなうことができた。会社を取り巻いた二重、三重の危機からの脱出口が見え始めたころ、オジキはオヤジを赤ちょうちんに誘った。

ソウちゃんとタケちゃんの夢1

「ソウちゃん、マン島に行って来いよ」
「タケちゃん、何言ってるんだ、こんな時に」
ソウちゃんと呼ばれた社長は、差し出された銚子を猪口で受けながら、ふられた話を軽く流そうとしたが専務のタケちゃんはもう一度、マン島を口にした。「こんな時だからいっているんだよ」

 口調こそ柔らかかったが、専務の分厚い眼鏡レンズの奥には仕事の時と寸分も変わらない厳しいまなざしがあった。
昭和29年3月、自社製のオートバイを生産していた社員数約500名の会社の社長と専務が東京本社からほど近い場末の赤ちょうちんで飲んでいた。社員からはオヤジとオジキと呼ばれていた二人は、互いをソウちゃん、タケちゃんと呼びあった。

 二人のあいだでマン島といえば、それは毎年行われる世界グランプリ・バイクレース、マン島ツーリング・トロフィーを意味していた。町工場に毛が生えたような会社だが、いつか世界に打って出ると、二人はいつも口にしていた。だから社長のオヤジに専務のオジキが、世界グランプリへの参加の下見をかねたマン島のレース視察を提案するのも当たり前といえるのだが、提案した時期が当たり前ではなかった。オヤジがこんな時といったのも無理のない話で、会社は2週間前に設立以来の最大の危機を迎えていた。

 太平洋戦争終戦直後の昭和21年、5人の社員とともに浜松で始めたオヤジの商売、エンジン付きの自転車の製造と販売はおおむね好調だった。ときたま、トラブルにも見舞われたがオヤジの腕と商売の狙いは確かで売り上げは順調に伸び、工場も徐々に大きくなった。地方はもちろん東京でも鉄道やバスの他に交通手段を持たなかった庶民にエンジン付きの自転車は日常の足として重宝された。

 ほぼ独学で身に着けたものであるがオヤジの技術は一流といってよく、製品の故障も少なかったことで評判は悪くなかったが、最初の二、三年のうちは会社の売り上げに見合うだけの儲けはなかった。問屋へのあいさつ回りや金の回収することに関して、上手い経営者の部類に入らなかったオヤジは、商売で大きな穴を開けて工場そっちのけで金策に走り回ることが半年に一度や二度はあった。オヤジは三十路が見えたころに知り合いの口利きで浜松の高専に聴講生としてもぐりこんだこともあるらしいが、「小学校卒にそんなことは分かるか」が口癖だった。尋常小学校卒がすべからくそうなのか知らないが、オヤジはどんぶり勘定を改めようとせず、月末や決算期にオヤジの機嫌が悪くなるのは会社の恒例行事だった。

 そんなオヤジをみるに見かねて、一回りは違う高専の同級生を名乗る人物がオジキを紹介した。挨拶に来たオジキは、初対面で「金勘定は得意だから任せてくれるなら、アンタがモノづくりだけをやっていけるようにしよう」と単純きわまりない役割分担を提案した。会社の説明もろくにしない、訊かないうちにする話ではないのだが、オヤジは小さく頷いて、小さな巾着を差し出した。オジキが中を改めると判子が入っていた。普段、驚いた顔など見せたことがないオジキもこれには驚いたらしい。「実印だ、よろしく頼むよ」とオヤジはゴツゴツした右手を差し出して握手を求めた。

 初対面から1週間後、新しくオジキが会社に加わった。それから1か月もたたずに会社の経理は全てオジキが仕切るようになった。オヤジもそうだがオジキも理論より行動の人だった。オジキは売り上げを確実に回収できるように商売のやり方を変えた。すると会社はたちまちのうちに金回りが改善し、急速な成長を開始した。オジキは振り出した手形を決済するまでの時間を逆算して、回収した売上金をぎりぎりまで設備投資に回して工場を拡大した。はたからみると危なっかしくて見てられないような商売だったが、オジキなりに勝算はあった。

 軍の払い下げだった小型エンジンの在庫が底をつくとオヤジが設計から手掛けたエンジンで自社製のオートバイを売り出した。会社の規模はまたたくまに10倍以上になった。町工場から脱した会社にも労働組合が結成された。アカが嫌いだったオヤジはいろいろと気をもんだが、オジキはやっと会社らしくなったと喜んだ。まったくの余談だが、新米の社員は血気にはやるオヤジにスパナで整備や製造のイロハを叩き込まれるのがウチの会社の常識というか通過儀礼みたいなものだったが、その話を聞きつけた社外の組合アドバイザーが「経営側の横暴を許すな」といって対立を煽ろうとした。だが「オヤジのスパナと拳固はいい教育になった」とほとんどの社員は取り合わなかったらしい。なんだかんだいってカミナリを理不尽に落とすが、オヤジの言っていることは筋が通っていてほとんどの社員はオヤジの男気とオジキの迫力ある強面を頼もしく感じていた。

 オジキが会社に加わってから、商売は右肩上がりになったが、それは朝鮮戦争による追い風を日本の産業界全体が受けていたことが大きかった。だから半島のドンパチが休戦になるとその勢いはみるみるなくなっていった。その頃、他社との競合も激しくなり、オートバイの性能で差別化を図ろうとしたウチの会社は大失敗をしでかした。新しく売り出したスクータータイプのバイクは馬力もあってスピードも出たが、重量があったため取り回しが悪く不評だった。そして排気量を増やしたスポーツタイプのマシンはエンジン音が大きく、エンジン・トラブルが頻発したことで評判が芳しくなく、会社の売り上げが想定していた額の半分にしか届かなかった。資本金600万円のちっぽけな会社が4億5千万円の工作機械を輸入したら売上が落ちて利益が出なくなった時期が、おやじのいう”こんな時”だったのである。

劉セイラ

twicomi.com


ラジオの中国語講座
出演している劉セイラが
とてつもなく面白い。

幼少のころ、
日本のアニメに心撃ち抜かれて
高校で日本で声優になることを志し
両親から中国最難関の大学入学を
条件として課せられると
それをクリアして、大学に合格し
大学で日本語を学び、日本に留学し、
挫折を味わいながらも
大願を成就させる。

巧みな日本語を操るトークもそうだが
彼女の生きざまそのものが
漫画のストーリーように起伏に満ちており
感嘆するより他はない。
実際、彼女の半生記は
彼女自身によって漫画として綴られており
異国で奮闘する彼女の一挙手一投足に
感情が揺すぶられてしまう。


隣国でありながら、
素直に親しみを覚えることが難しい人々だが
それでも彼女のまっすぐな一途さが
胸にささる。

加油、劉セイラ。

稽古

とある柔道関係者の話をきき
柔道の創始者嘉納治五郎の教えが
先取性に満ちて、かつ合理的なものだったことに
少なからず驚かされた。

曰く、嘉納の目指した柔道は
「型」「実践(乱取り)」「講義」「問答」の四つから
成り立っている。
技の基本を型を学び、実践で体得し
それを言語化して伝え、
問答を通じて教える側も
成長を促すのが目的であった。


スポーツを体育と訳し、武道をスポーツととらえることに
いささかの抵抗を覚えるものであるが
人間の成長が武道の本質であるとするならば
武道とは体育と同義ととらえても間違いではないのかもしれない。

稽古とは、古(いにしえ)を稽(かんが)えるー
型を学ぶ稽古に、そうした意味があったことなど
ついぞ考え方ことなどなかった。
自身の不明を恥じる。

世界で一番になろうじゃないか

http://majo44.sakura.ne.jp/trip/2019hondahall/12.html

「ホンダは、松明(たいまつ)を自分の手でかかげて行く企業である。
日本の自動車企業には前を行く者の持つ明かり、その明るい所について行くものが多い。が、たとえ小さな松明であろうと、自分で作って自分たちで持って、みんなと違ったところがありながら進んでいく、これがホンダである」

まるで本田宗一郎総司令官の発言のようですが、これが藤沢副社長の発言であり、二人が根源的な部分で深く共闘していたのだ、という事が判ります。藤沢さん、ただの営業屋じゃないのです。
ホンダという会社は本田宗一郎総司令官の天才性による所が大きいのは事実ですが、実際にその基盤となっている企業体質、思想などは半分以上が藤沢副社長によるものだと思っていいでしょう。
例えば日本の企業の中ではかなり早い段階から国際展開をしていたホンダですが、これも藤沢副社長の決断によるものでしたし、以前もちょっとふれたマン島TTレースを目指す事を明らかにした宣言文も、実際は藤沢さんが書いたものでした。

tacaQが尊敬してやまないマニア・夕撃旅団氏のページには
茂木のホンダコレクションホールの探訪記があり
その記事は、ホンダに対する愛情に似たリスペクトの念が
散りばめられている。


高校時代に高校の大先輩海老沢泰久氏の「F1地上の夢」を読んで
本田宗一郎本田技研工業、そして
宗一郎と長らくコンビを組んで副社長を務めた藤沢武夫氏について
ある程度知った気になっていたが、
その認識は誤りであった。

 わが本田技研はこの難事業をぜひとも完遂し、日本の機械工業の真価を問い、これを全世界に誇示するまでにしなければならない。
わが本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。
 ここに私の決意を披瀝し、T・Tレースに出場、優勝するためには、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。

イギリスのマン島に赴き、
自社の2倍以上の馬力を出す
世界基準のバイクレースを目の当たりにしも
臆することなく
世界一を目指した宗一郎の檄文が
プラスのネジすら存在しない工業化の遅れた国の
しかも、資金繰りに行き詰まり、倒産寸前の会社が
掲げた宣言だとはついぞ知らなかった。


戦後、焼け野原になった日本では
小型エンジンを自転車に取り付けた乗り物が重宝され
あまたのバイクメーカーが屹立しては消えていった。
生き残った4社に何故に本田技研が加わることができたのか。
生き残るだけでなく
世界的なメーカーとしての地位を確立することができたのはなぜか。
宗一郎氏の卓抜した技術、社会性を重視した倫理観もさることながら
藤沢氏の透徹した経営哲学や先見性なければ
難しかっただろう。



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