ソウちゃんとタケちゃんの夢1

「ソウちゃん、マン島に行って来いよ」
「タケちゃん、何言ってるんだ、こんな時に」
ソウちゃんと呼ばれた社長は、差し出された銚子を猪口で受けながら、ふられた話を軽く流そうとしたが専務のタケちゃんはもう一度、マン島を口にした。「こんな時だからいっているんだよ」

 口調こそ柔らかかったが、専務の分厚い眼鏡レンズの奥には仕事の時と寸分も変わらない厳しいまなざしがあった。
昭和29年3月、自社製のオートバイを生産していた社員数約500名の会社の社長と専務が東京本社からほど近い場末の赤ちょうちんで飲んでいた。社員からはオヤジとオジキと呼ばれていた二人は、互いをソウちゃん、タケちゃんと呼びあった。

 二人のあいだでマン島といえば、それは毎年行われる世界グランプリ・バイクレース、マン島ツーリング・トロフィーを意味していた。町工場に毛が生えたような会社だが、いつか世界に打って出ると、二人はいつも口にしていた。だから社長のオヤジに専務のオジキが、世界グランプリへの参加の下見をかねたマン島のレース視察を提案するのも当たり前といえるのだが、提案した時期が当たり前ではなかった。オヤジがこんな時といったのも無理のない話で、会社は2週間前に設立以来の最大の危機を迎えていた。

 太平洋戦争終戦直後の昭和21年、5人の社員とともに浜松で始めたオヤジの商売、エンジン付きの自転車の製造と販売はおおむね好調だった。ときたま、トラブルにも見舞われたがオヤジの腕と商売の狙いは確かで売り上げは順調に伸び、工場も徐々に大きくなった。地方はもちろん東京でも鉄道やバスの他に交通手段を持たなかった庶民にエンジン付きの自転車は日常の足として重宝された。

 ほぼ独学で身に着けたものであるがオヤジの技術は一流といってよく、製品の故障も少なかったことで評判は悪くなかったが、最初の二、三年のうちは会社の売り上げに見合うだけの儲けはなかった。問屋へのあいさつ回りや金の回収することに関して、上手い経営者の部類に入らなかったオヤジは、商売で大きな穴を開けて工場そっちのけで金策に走り回ることが半年に一度や二度はあった。オヤジは三十路が見えたころに知り合いの口利きで浜松の高専に聴講生としてもぐりこんだこともあるらしいが、「小学校卒にそんなことは分かるか」が口癖だった。尋常小学校卒がすべからくそうなのか知らないが、オヤジはどんぶり勘定を改めようとせず、月末や決算期にオヤジの機嫌が悪くなるのは会社の恒例行事だった。

 そんなオヤジをみるに見かねて、一回りは違う高専の同級生を名乗る人物がオジキを紹介した。挨拶に来たオジキは、初対面で「金勘定は得意だから任せてくれるなら、アンタがモノづくりだけをやっていけるようにしよう」と単純きわまりない役割分担を提案した。会社の説明もろくにしない、訊かないうちにする話ではないのだが、オヤジは小さく頷いて、小さな巾着を差し出した。オジキが中を改めると判子が入っていた。普段、驚いた顔など見せたことがないオジキもこれには驚いたらしい。「実印だ、よろしく頼むよ」とオヤジはゴツゴツした右手を差し出して握手を求めた。

 初対面から1週間後、新しくオジキが会社に加わった。それから1か月もたたずに会社の経理は全てオジキが仕切るようになった。オヤジもそうだがオジキも理論より行動の人だった。オジキは売り上げを確実に回収できるように商売のやり方を変えた。すると会社はたちまちのうちに金回りが改善し、急速な成長を開始した。オジキは振り出した手形を決済するまでの時間を逆算して、回収した売上金をぎりぎりまで設備投資に回して工場を拡大した。はたからみると危なっかしくて見てられないような商売だったが、オジキなりに勝算はあった。

 軍の払い下げだった小型エンジンの在庫が底をつくとオヤジが設計から手掛けたエンジンで自社製のオートバイを売り出した。会社の規模はまたたくまに10倍以上になった。町工場から脱した会社にも労働組合が結成された。アカが嫌いだったオヤジはいろいろと気をもんだが、オジキはやっと会社らしくなったと喜んだ。まったくの余談だが、新米の社員は血気にはやるオヤジにスパナで整備や製造のイロハを叩き込まれるのがウチの会社の常識というか通過儀礼みたいなものだったが、その話を聞きつけた社外の組合アドバイザーが「経営側の横暴を許すな」といって対立を煽ろうとした。だが「オヤジのスパナと拳固はいい教育になった」とほとんどの社員は取り合わなかったらしい。なんだかんだいってカミナリを理不尽に落とすが、オヤジの言っていることは筋が通っていてほとんどの社員はオヤジの男気とオジキの迫力ある強面を頼もしく感じていた。

 オジキが会社に加わってから、商売は右肩上がりになったが、それは朝鮮戦争による追い風を日本の産業界全体が受けていたことが大きかった。だから半島のドンパチが休戦になるとその勢いはみるみるなくなっていった。その頃、他社との競合も激しくなり、オートバイの性能で差別化を図ろうとしたウチの会社は大失敗をしでかした。新しく売り出したスクータータイプのバイクは馬力もあってスピードも出たが、重量があったため取り回しが悪く不評だった。そして排気量を増やしたスポーツタイプのマシンはエンジン音が大きく、エンジン・トラブルが頻発したことで評判が芳しくなく、会社の売り上げが想定していた額の半分にしか届かなかった。資本金600万円のちっぽけな会社が4億5千万円の工作機械を輸入したら売上が落ちて利益が出なくなった時期が、おやじのいう”こんな時”だったのである。