ソウちゃんとタケちゃんの夢4

「ヨシ、もう一遍いってみろ」
「ノブのアニキの作ったエンジンは古いといったんです」
 アニキの目が大きく見開いていた。ヨシはノブが本気で怒っていることが分かった。
昭和60年2月、世界一を目指して四輪のフォミュラーレース最高峰に挑んでいた会社は壁にぶち当たっていた。研究所のナンバー2になっていたノブのアニキが会社の役員を説得してレース復帰の段取りつけてから3年、会社は捗々しい成果を残せずにいた。昭和36年マン島TTに勝利し、その後バイクレース全クラスで年間優勝を果たした会社は、四輪の最高峰レースにも昭和39年から5年にわたって挑んだ。その頃、二輪と四輪の両方のレースでエンジンづくりに携わったエンジニアは数人いた。ノブのアニキもその数人のうちの一人だった。

 二輪は参戦して3年で初勝利をもぎ取り、その年に年間優秀、つまりは世界一の座を獲得したが、四輪最高峰のレースでは、5年間で2勝したのみで主役の座をつかむことなく舞台から降りていた。世界一ははるかに遠かったが、届かない目標とは思えなかったとノブのアニキは言っていた。しかし、昭和40年代になるとオイルショック、排ガス規制と自動車業界を取り巻く環境が一気に変わり、それまで突っ走ていた会社の勢いは急速に衰え、若手のエンジニアをレースで鍛える余裕は消えた。オヤジが掲げた世界一への挑戦は、その入口に立つこと自体が困難となった。道半ばでの撤退はオヤジとしても不本意であっただろうし、現場で躍起になっていたアニキたちの口惜しさも筆舌に尽くし難かっただろうとヨシは推測した。実際、撤退が決まった頃、アニキはレースの世界にどっぷりつかっていて、会社を辞めてヨーロッパのチームに加わりレースを続けようとしていた。レースの現場責任者で四輪レースの元締め的存在であったナカさんは、引き留めるどころか「俺も若けりゃなぁ」とノブのアニキを羨ましがった。

 そんなアニキを引き留めたのが、今の社長であるタダシの大アニキだった。「会社の仕事をこなしてさえいれば、社外でレース活動してもいい」という条件で慰留したとのことだった。アニキにしてみれば、格落ちのレースとはいえ勝負できるのであればしばらく我慢してやってもいいか、くらいの気持ちだったらしい。
アニキを納得させたそのタダシの大アニキも若いころはレースにどっぷりハマっていて、会社が最高峰クラスに挑戦する以前に、国内のあちこちのレースで手伝いと称してエンジンのチューンナップしたり、パーツを横流して結構なヤンチャをしていた。ウチの車のユーザーならオヤジやオジキも黙認していたが、ライバル社の車もチューンしたというから、ヤンチャをするにもほどがある。ヨシが入社したころ、大アニキはレースの現場から離れていたが、オジキにワビを入れて事なき得たことは会社の技術者の間で伝説と化しており、ヨシも勝負にこだわる大アニキを尊敬していた。本当に三度のメシより勝ち負けが好きな連中ばかりが集まっていた会社だった。

 そんなヤンチャだった現社長のタダシの大アニキは、ノブのアニキを後継者に考えているらしく、研究所のナンバー2にして本社に役員の椅子を用意した。役員なんて柄じゃねえと断るアニキに、レースの続きをやりたきゃ、黙って受けろと無理やり座らせた。意にそぐわなかったとはいえレース好きのアニキが会社の事業計画に公然と口を挟める立場になったことで、四輪レースの再挑戦は会社の規定路線となった。アニキは役員になって2年で、レース再開のための大名分を整え、会議で予算を分捕り、チームを発足させ必要な資器材やレースパートナーの手配などを指示して、陣容をほぼ最短時間で作り上げた。しかし、計算高いアニキも一つ見込み違いがあった。それはエンジン設計者の手当がつけられなかったことだ。当時会社は新車の発表が延々と続く時期であり、社内にいたエンジン設計屋のスケジュールは2年先までほぼ埋まっていた。だったら、レースに復帰する時期を少しずらせばいいのに、その少しを我慢することがアニキにはできなかった。結局、アニキが自分でエンジンの図面を引いてレースに復帰することにになった。曲がりなりにも上場企業の役員だから、そんな暇などあるはずないのだが、レース復帰をプレスリリースする頃には図面をほぼ完成させていた。18年前の設計をベースにしたエンジンを現行のレギュレーションに合わせだけのシロモノだったかもしれないが、それでも簡単にできる類の話ではなかった。

 ヨシに言わせれば、ノブのエンジンは埃と錆にまみれた設計思想だった。ヨシはそれをノブ本人に古いと伝えたことで罵声を浴びせられた。ただその古いエンジンが昭和59年のアメリカの市街地開催レースで勝利を勝ち取っていたのだから恐れ入る。勝利を悦ぶより、アニキのエンジニアの腕に舌を巻かざるを得なかった。だが、1勝しようが古いものは古い。エンジンで生じる排出ガスでタービンを回して、エンジンに入り込む気化燃料を増量させ、燃焼によるパワーを増幅させるターボ・エンジンは、高回転で高出力を目指した時代の設計と根本的に違う。回転数の高低よりも、全体的なバランスが重要となっっていた。コーナーとかエンジンの回転が落ちる時に出力が極端に低くなる欠点を克服できない構造の古いエンジンでは、他社のエンジンに勝てる目はない。ノブのアニキが設計したエンジンが勝利した理由は、天候やコースレイアウトの関係でエンジンの差がつきにくく、かつドライバーが市街地を得意としていたことに助けられた部分が大きかった。それ以外のクローズド・コース、つまり普通のサーキットでは他のメーカーのエンジンとの性能差は明らかとなり勝負に持ち込むことすらできなかった。

「高回転、高出力のエンジンのどこが悪い」オヤジは、15年前に引退したがオヤジが目指したエンジンの回転数を高めて、高馬力を追求する考えは会社のお家芸になっていた。車体の軽い二輪車はそれで問題はなかった。しかし、重い四輪車では通用しない。タイヤが余分に2個ついているだけでなく、エンジンからの出力をタイヤに伝えるシャフト、ドライバーのシート、ベルト、流線形のボディ、タイヤの接地効率を高める羽根、そして強烈なGが加わる車体の剛性を支える補強材、そのいずれもが極限まで軽量化が図られているが、規定で総重量を500キログラムをいくばくか越えることが定められていた。これに燃料やドライバーの体重が加わる。レース全体では最高馬力を出せる時間と区間はごく限られており、500キログラム以上の物体の加速と減速を絶え間なく繰り返す時間の速さが求められていた。

最高峰のレースといえども、最高出力ではなく回転数が変化しても出力を滑らかにできるエンジンの方が強いのである。レースに勝つためには会社従来のものと別なロジックが必要だった。それはオヤジから続いている高回転エンジンとの決別を意味した。最高峰のレースで低迷が続く現状を見かねて、アニキが緊急のミーティングを設けたが、怒り出したアニキが席を立ったため、会議はお開きとなった。