文運長久

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 病に倒れた妻の余命が1年くらい、と医師から知らされた時、夫はどんな行動を取るだろうか。SF作家の眉村卓さんは、1日1編、妻の悦子さんが読み終わってにやりとするような、短い話を書くことを思いつく。

 ▼笑うとがんを殺す細胞が活性化するという話を聞いたからだ。平成9年7月にスタートして200回を超えるころ、出版されることになった。眉村さんは、『日がわり一話』と題した作品集を「お百度みたいなもの」と説明していた。

 ▼それを小紙の記者は書評欄で、「比叡山千日回峰行のような仕事」と紹介した。千回まで悦子さんが生きていられるのか、心配していた眉村さんは喜んでくれた。書き始めてから1778日目の平成14年5月28日、悦子さんは67年の生涯を終えた。

 ▼高校の同級生だった2人は、卒業後に付き合い始めた。高校で俳句にのめり込んでいた眉村さんは、大阪大学入学後に柔道を始める。悦子さんにハッパをかけられて、黒帯三段になった。会社勤めの傍ら小説を書き始めると、高校時代に文学青年だった眉村さんを知っている悦子さんは積極的に協力した。原稿を書き上げると、悦子さんによる誤字脱字の点検がならわしだった。

 ▼眉村さんは、大阪版夕刊の「夕焼けエッセー」、現在の「朝晴れエッセー」の選考委員を13年前から続けている。先月19日の「9月月間賞」を発表する紙面で元気な姿を見せていた、眉村さんの訃報が届いた。85歳だった。

 ▼「一番目の読者」である悦子さんを失ってからも、眉村さんの執筆意欲は衰えなかった。悦子さんが亡くなる1年前、2人で寺参りをした。祈願の札に「病気平癒」と書くよう眉村さんが諭しても、悦子さんは「文運長久」を譲らなかったという


ねらわれた学園」が、
薬師丸ひろ子主演で
映画化されロードショーしていた頃
自分は、まだ小学生だった。
テレビより、触れる時間が長かったラジオからは
主題歌だった松任谷由実の「守ってあげたい」が
頻繁にオンエアされていた。

以来、ねらわれた学園ときけば、
ユーミンの声が反射的に思い浮かぶのだが、
不思議と映画も小説も触れずじまいだった。
小説が兄の書棚にあったことを思えば
今更ながら、もったいないことをしたような
気がする。

昨日、新聞を読んで
その作者とその夫人の人となりを知った。

支え、支えられて人は生きていくー
そんな当たり前の事実が
限りなく尊く、素晴らしいものであることに
今更ながら気付かされた。