人生は回転木馬~ユルネバと少年A~

  • 1

夏の兆しがみえ始めた5月の晴れた火曜日
少年Aは、その場所にやってきた。
どこか暗い印象をあたえる彼の瞳に
わずかだが明るい光が差した。

彼が小学生の頃、憧れたプロサッカーチームの
クラブハウスがそこにはあった。
「おい、こっちだ」
少年Aは、引率者に導かれるように
クラブハウスの隣にある平屋の建物の
事務室の一つに入った。

「今日一日、よろしくお願いします」
クラブのグランド管理スタッフに
緊張した面持ちで挨拶を述べた少年Aは、
多摩少年院の在院生だった。
退院が間近に迫った彼は、
社会に復帰するためのプログラム、
インターン実習が課題として与えられ、
プロサッカーのクラブチームを訪れていた。
クラブが使用するグランド施設の管理ー、
それが、彼に割り当てられた業務だった。

退院間近の少年Aの心は、
日常に戻れる期待より、
憧れのチームに携わる嬉しさよりも
社会復帰に対する不安が多くを占めていた。

  • 2

「少年院の社会実習を受け入れる」
クラブの地域統括マネジャーが
選手を含めたクラブ全体ミーティングで
そう宣言したのは、
リーグ戦が開幕して間もない3月のことだった。
クラブの広報活動の一環として、シーズン中でも
選手が参加するボランティア活動が
過去に何度か計画されたが、
今までに前例のない社会奉仕の企画は
少なくない驚きを持って迎えられた。

選手が理由をたずねるとマネジャーは、
質問を予期していたかのように滑らかに答えた。
「サッカーの力を試してみたいんだ」
マネジャーは、選手らの反応を確認した。
選手らは一様に怪訝な顔をしていた。

「我々のメッセージというのは
本当に地域へ届いているのだろうか、
我々のクラブが、この地域に
受け入れられているのは間違いない。
しかし、地域にとって我々は
絶対に必要な存在となっているだろうか。
皆の意見は違うかも知れないが
私はまだこのクラブが、その域までは
達していないと思う」

選手らはマネジャーの言葉の真意を測りかねた。
軽く受け流した者もいたが、
待ちきれずに一人が端的に訊ねた。
「それで我々は、何をすればいいんですか」

マネジャーは、明確に回答を口にした。
「 特別なことは何もない、
いつも通りのプロフェッショナルでさえ
いてくれればいいんだ。
接触の機会はそう多くないと思うが、
スタッフに接する普段どおりの対応を
してくれればいい」
面倒ごとを予期して、
身構えていた選手らは、緊張をゆるめた。

  • 3


「グランドキーパーの手伝いをしてもらう」
スタッフにそう言われた少年Aに
紺色の帽子が差し出された。
短く刈り込まれた頭髪は
7、8人いたスタッフの中に入ると
異質さを醸し出していた。
落ち着かない居心地の悪さを感じた少年は、
スタッフらの気遣い、というには、
あまりにささやかな配慮であったが、
有難うございます、と感謝の言葉を
口にして帽子を受け取った。

少年Aは、昼食を挟んで6時間あまり
与えられた仕事を懸命に務めた。
初めての場所で、今までしたこのない業務、
自分を在院生としか知らないスタッフとの
時間は、新鮮で楽しくもあったが、
彼の神経を少なからず、すり減らした。

少年Aの疲労が滲み出し、その様子が
外から容易に見て取れるようになった頃、
スタッフが、顔洗ってくるようにと
タオルを投げて渡した。

少年Aが洗い場で帽子をとって顔を洗っていると
練習を終えた選手が通りがかった。

レギュラーのGKが、
見慣れない頭髪に気づき、
少年Aに声をかけた。

「君かぁ、インターンできてくれたのは」

レギュラーの選手が
実習を知っていたことに驚いた少年Aは、
あわてて帽子を被った。

  • 4


「あー、はい」
少年Aは思いがけない選手との遭遇に
動揺し、そう応えるのが精一杯だった。
「なんだぁ、反応薄いなぁ、
俺、そんなにメジャーじゃなかったんだ」
GKは少年Aの反応に予想と違った硬さを感じた。

「いや、違います、あのー、緊張して。
少年院に行く前から、いつも応援してました」

少年院ー、
少年Aは自分が口にした言葉によって傷ついた。
少年は、プロのクラブチームのような
明るく華やかな場所で働くことは
間違いだと思った。
自分の立場を自覚しなければ、と
自身に言い聞かせた少年Aの瞳は
翳が濃くなった。

頑な少年だと、GKは感じた。
サッカーの力を試したいー、
地域統括マネジャーの言葉を
GKは頭の中で反芻させた。
プロフェッショナルとは何かを
選手として考えながら、会話をつなげた。

「作業は大変だったろう」
「はい、でも、勉強になりました」
「芝生の手入れありがとう」
選手から礼を言われるなど、
少年Aは全く想像もしていなかった。
また、自分の作業に気付いてくれたことが
驚きである以上に嬉しかった。

少年Aの感情の変化は
容易に読みとることができた。
GKは、お節介が過ぎるかなと自問した。
スタッフをねぎらうー、
選手にとっては
いつもの日常の行為に過ぎない、
許容範囲だろうとGKは判断した。

「失敗を糧に成長できたから、今の俺がある。」
GKの言葉は少年Aの瞳にかすかな光を宿した。

  • 5


少年Aは、クラブハウスの事務所で
チームの地域統括マネジャーに
実習終了に伴う挨拶した。

受け入れてくれたことに対する謝意を
述べたあと、一つの疑問を口にした。
クラブにとって得るものがないのにも関わらず、
実習をとりはかってくれた理由を少年は訊ねた。

少年は、他人の善意を容易く信じれなかった。
利益なしで動く人間を信用しては、いけないー、
少年Aが十数年間で学んだ人生訓だった。
少年は、利用されること、騙されること、
裏切られることを恐れていた。

少年の言葉の奥にある猜疑心を
マネージャーは感じた。
目の前の少年との距離はかなり遠い、と思った。
彼は、少年の瞳を真っ直ぐに捉えて
諭すように語りかけた。
「お金儲けだけが、クラブの目的ではない」
少年は、真っ直ぐな眼差しを向けたままだった。
「クラブはスポンサーからの支援、
試合の入場料、グッズの売り上げなどによって
賄われている」
少年Aは無言だった。
マネジャーは話を続けた。

「クラブはこの街に支えられている」
マネジャーは視線を窓に移した。窓の外には、
クラブの旗が掲げられた街並みが広がっていた。
「スポンサーは資金を提供し、
名前をユニフォームに記す権利を得て、
宣伝して利益を得る。
ギブアンドテイクの関係だ」
少年は、頷いた。
「では、この街にとっての利益は何か、
我々は地域に何を還元、返しているのかだがー」
マネジャーは少年Aの反応を確認した。
「我々はサッカーという娯楽を提供する他に、
社会奉仕という形で貢献することで
地域に恩返しをしている。
今回の実習受け入れは、その一つだ」
少年Aは、納得できる顔をしていなかった。

「社会奉仕は1円の得にはならない、
でもとても重要なことなんだ、分かるかい」
少年は首を横にふった。
「クラブの発展のためには、
チームの器を大きくすることが必要なんだが、
そのためには、
多くの人にこのクラブと関係を
持ってもらわなければならない。
そういう意味で地域社会との交流は
重要な機会だ」

マネージャーは、少年に対する眼差しを
少し緩めて訊ねた。
「君は、彼女がいるかい」
少年は、いたと過去形かつ小さな声で答えた。
「そうか、だったらわかりやすいかな、
クラブと街の関係は恋愛関係に似ている」
少年は、理解できないという顔をした。
その顔はマネージャーを面白がらせた。
2人の距離が少し縮まった。

「一方的な恋愛はすぐに終わる、
お互いが相手を思いあって
はじめて長続きするんだ。
声援を送ってくれるサポーターやホームタウンを
クラブは大切にしなければならない。
お互いが相思相愛でこそクラブも街も発展する」
日本のプロサッカーリーグでは、
ホームタウンを蔑ろにして没落したチームや
地元の協力を思うように得られず成績や
収入が伸び悩むチームがいくつかあった。

「サポーターやホームタウンを大切にする。
また、その姿勢を分かりやすい形にすることも
大事なことなんだ。
そうしたクラブからのメッセージを
伝える手段の一つが
社会奉仕活動だと私は思っている」

少年は、マネージャーの話を理解しつつあった。

「私の言葉は綺麗事にきこえるかも知れないが
その綺麗事がなければ、
プロサッカーを営む理由は、どこにもない。
綺麗事を現実のものとするため、
我々は存在している。
正直にいって、クラブ立ち上げの頃は
実現できるわけがない、と思っていた。
たが、どんな難しいことでも、
諦めずにあがき続ければ、
実現は意外と難しくないことがわかった」

マネージャーの言葉は、
ただの綺麗事だと少年には思えなかった。

「それともう一つの答えは
このチームのチャントにある」
少年Aは、再び理解不能という顔をした。

  • 6


「君はクラブの応援歌、チャントを
聞いたことがあるかね」
マネージャーの問いかけに
少年Aは首を横に振った。

「チームにはチャントがいくつかあるが、
もっとも代表的なのがそれだ」
マネージャーは、話しながら応接セットの
傍らにあった液晶テレビを指差した。
大型液晶の画面には、
チームのイメージ映像が映し出されていた。
ホームのスタジアムを埋めたサポーターが
起立してチームのマフラーを頭上に掲げていた。
暫しの静寂を経て、
サポーターによるチャントの大合唱が始まった。
チャントを斉唱するサポーターの映像に、
試合中、選手が激しくぶつかる場面が
オーバーラップし、
冒頭の歌詞が、少年の心に飛び込んできた。

嵐の中でも顔を上げろ
闇に怯えることなくー

チャントの原曲は、70年以上前に
アメリカで上演されたミュージカルの曲だった。
後年、イギリスでカバーされて
ヒットチャートを駆け上ったとき、
とあるイギリスの港町のチームが
スタジアムでその曲を流し続けた。
そしていつのまにか、
サポーターはチャントとして
その曲を歌い、選手に声援を送った。
やがて曲の唄い手は国境を超え、
今では、世界中の多くのクラブチームの
サポーターが愛唱する曲となった。

嵐の向こうには
小鳥がさえずる青空があるー

サポーターの歌声が
体に染み込むような感覚を少年は覚えた。

進め、風の中を
進め、雨の中をー

歌が自分と被る、と感じた少年は、
逆風に耐える未来を想像した。
チャントが幾度となくチームを鼓舞し、
選手を奮い立たせてきたように
負けてはいけない、と少年は思った。

夢が潰えても歩け
歩き続けろー

マネージャーは少年に言った、
チームにとっての幸せは
目先の利益ではなく、
多くの人と一緒に感情を共有することだ、
このクラブに多くの人達を絡ませていきたい、
だから
君もクラブのファミリーになってくれと。

希望の光を胸に抱きー

孤独をおそれていた少年には、
長い間欲していた言葉があった。
その言葉を見つけたとき、
少年は嗚咽を漏らした。


君の進む道は決して一人じゃないー