汝、不死鳥たれ


http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2006080201005640.html

篠竹幹夫氏が死去アメフットのカリスマ監督
日本を代表するアメリカンフットボールのカリスマ指導者として、日大を17度の学生王座に導いた篠竹幹夫(しのたけ・みきお=元日大教授)氏が7月10日、死去したことが2日わかった。73歳。横浜市出身。死因、死亡場所、自宅は遺族の意思で公表しない。連絡先は東京都世田谷区桜上水3ノ25ノ40の日大アメリカンフットボール部。既に密葬は済み、後日、アメリカンフットボール部葬が行われるが、日時、場所未定。
日大入学後にアメリカンフットボールに取り組み、1959年に監督に就任。独特の指導で知られ、70年代後半からショットガン隊形を導入。東西大学王座決定戦「甲子園ボウル」で78年から5連覇するなど、監督として17度優勝。日本選手権「ライスボウル」も4度制覇した。2003年3月末で定年のため監督を退任。同年に日本協会の殿堂入りした。

教え子ではないにしろ、大学2年の春、市ヶ谷周辺に宿をとり
下高井まで通って日大と合同練習を1週間ほど組んだことがあり
その際、氏から指導されたことがある。
命を賭けろ、という非常に厳しいスタンスでフットボールに接し
闘将と呼ぶに相応しい人物だったと個人的には思う。


現役時代、ドクターストップがかかった膝のケガを逆療法で克服し試合に出場
日大卒業後は、OBチームを結成し在日米軍チームに挑戦状をたたき付け
水杯を交わし、君が代を歌ってから試合を戦い
昭和30年代以降に氏が日大の監督に就任してから日大は、
甲子園ボウルの常連となり関西学院大と常にトップを争うチームとなった。
彼は「犠牲」「協同」「闘争」を掲げてチーム指導にあたり
ショッガン・フォーメーションを日本で一番最初に導入し、
独特のスタイルを築き上げ9割を越える勝率を誇り、
来日したフットボールコーチが
アメリカだったら大統領になれる」と驚嘆したほど、強力なチームを作り上げた。
平成に入り、チームが甲子園から遠ざかり、
様々な醜聞が取り沙汰されたのは残念だが
それでも氏が、日本フットボール史上、燦然と輝く巨人である事実は否定できない。