続歴史の「いのち」

続 歴史の「いのち」―公に生きた日本人の面影

歴史は二度と繰返しはしない。だからこそ僕らは過去を惜しむのである。歴史とは巨大な人類の恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕らの哀惜の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます。


それは、例へば、子供に死なれた母親は、子供の死といふ歴史的事実に対し、どういふ風な態度をとるか、を考えてみれば、明かでせう。母親にとつて、歴史事実とは、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな条件の下に起つたかといふ、単にそれだけのものであるまい。


かけ代へのない命が、取り返しがつかず失われて了つたといふ感情がこれに伴なければ、歴史事実としての意味を生じますまい。


「歴史と文学」小林秀雄


占部賢志の『続歴史の「いのち」』は、前巻同様
有名無名の日本人が紡いだ珠玉ともいうべ知られざる物語を紹介している。
例えば、かつて名古屋市に流れていた精進川の裁断橋の擬宝珠には
秀吉の小田原攻めに参加し病没した一人息子を偲んだ母が
橋を架け、その擬宝珠に息子への思いを刻んだという。
三十三年も前に無くなった息子のことを記し、その書きつけをみた旅人に
供養のため念仏を唱えたまえという母の愛情の深さに
親の恩とは一生かかっても返しきれないものだと思わざるを得ない。
またそれと同時に今の時代に生きる我々が
歴史に臨む態度として欠けていたものが何かを明らかにしてくれる。


同書は、明治民法が家長制度等により人権を制限していた悪法だったと
評することに疑問を投げかけ、その制定の経緯やそれにまつわる物語を付し
日本人の間に脈々と流れ続けた価値観「祖先祭祀」の体現こそが
明治民法の精神だと称えている。



振り返れば我々の国に太平洋戦争後
「天国」を始めとするいうキリスト教ないし西洋発の概念がはびこるにつれて
「自由」とか「権利」とかがもてはやされ、道徳より利益が尊重され
死者より生者が優先され、祖先への敬慕が失われきた
またそれと比例するように国の乱れが大きくなっているような気がする。
今この国に必要のものは、先祖からの受け継ぐ物語と
それを守ろうとする態度ではないかと思う。


以上、先祖供養にあまり熱心でないオヤジの独り言である。