六カ国協議


今更ながら、六カ国協議である。
先日産経新聞論説委員の千野境子氏が
「風を読む」というコラムで以下のように述べていた。

未だに解せないのが、北朝鮮の核開発をめぐる再開六カ国協議での共同声明を、「初の合意」と歓迎した向きの多いことだ。そもそも核の放棄も核拡散防止条約(NPT)復帰も無条件の前提だったはず。双六なら振り出しに戻っただけにすぎない。
当然の話を喜んでしまうのは、北朝鮮の、さしずめ錬金術のせいだろう。いつの間にいか軽水炉建設を既定路線にした上に、建設は「(放棄)前だ」と問題を条件闘争にすり替えてしまった。北朝鮮のこういう身勝手は、同じく核開発疑惑のイランを連想すればよい。仮にもNPT脱退を高尚の取引に持ち出そうものなら、一笑に付されるだろう。この点は幸いイランは北朝鮮ではない。
電力不足は明らかなのに、韓国が「重大な提案」という電力供給も断った。これでは、欲しいのは核なんだと思わせる。かつては金日成は、ソ連によるシベリアから送電線敷設の提案を「自分の力で社会主義建設する」と断ったそうである。電気は欲しい。しかし、首根っこを押さえられてしまうのは困るからだ。歴史は繰り返す。韓国提案を断った金正日総書記は「父の遺訓」を思いだしたのに違いない。」
米国の対応も、もう一つ解せない。クリントン政権の94年の枠組み合意の失敗はいまや明々白々なのに、ここでもまた歴史を繰り返しはしないかと心配になる。レジーム・チェンジ(体制変更)はどこへ。政権も第二期、成果を求めての試行錯誤とはいえ、オルブライト国務長官(当時)のように、高官がマスゲームなど見にいきはしないでしょうネ。
こうする間にも北朝鮮の核開発は刻々と進行中だろう。しかも北の核の脅威に、もっともさらされているのは日本なのである。


六カ国協議の共同宣言がどれほど意味があるのか、
判別がつかなかったので今まで論評は差し控えていたが、
結局は北朝鮮の核開発のための時間稼ぎに付き合わされただけというのが
実相に近いのではないだろうか。


5年前の2000年に南北朝鮮のトップ会談が実現し南北共同宣言なる代物が発表されて
朝鮮半島が平和的に統一するかのような錯覚で韓国のマスコミは大騒ぎしたが
結局は何も変わっていない。
変わったといえば、金正日体制への批判が事実上タブーとなり、
韓国政府やマスコミの左傾化が著しくなり、北の"平和的"な侵略が加速したことくらいだ。
今の今まで南北の会談はあったし、大小の違いはあってもそれなりに南北の合意はあった。
それをその都度、歴史的とか大転換とか大げさな形容で修飾してきたが
今回の六カ国協議による共同宣言もその類の範囲をでるものではない。
つまりは、理念だが先行し、実は何もない空疎なだけの約束手形に過ぎない。


政治はフィクションの重ね合いでもあり、
空の約束手形に信じたふりをするフィクションや
フィクションを信じた故に瓢箪から駒が出るという話もないわけではないが
それは、手形が不渡りになった時の措置を講じてからの話だろう。
共同宣言を歴史的合意とか、問題解決のマイルストーンとか手放しで歓迎していいほど
北朝鮮は信用できる相手でないことを忘れていけない。
約束が破られた時、我々につきつけられるのは
日本の1億人全てが核の前に人質とられるという悪夢なのだ。



以上、被害妄想が過ぎるネットウヨの独り言である。