スマダル・エルハナン


先日、配布されたメルマガの中で戦争に関する興味深い記事を見かけた。
イスラエルのある少女とその家族の話である。
(参照イスラエル市民運動のラディカルさ



1997年9月4日、イスラエル西エルサレムにある繁華街ベンヤフダ通で、
パレスティナの爆弾テロによりスマダル・エルハナンという14歳の少女が亡くなった。
悲しいことだが、爆弾テロという事件ですらもはや驚くに値しなくなった彼の地であるが、
この事件が普通の爆弾テロ事件と違ったのは、
彼女の祖父は、第三次中東戦争で功績をあげたマティ・ペレドという将軍だったことだ。


1967年第三次中東戦争で、イスラエルは、エジプト・シリア・ヨルダンの連合軍を破り、
それまでヨルダン領だった西岸とエジプト領だったガザという2つのパレスチナ人地域を占領し、
今にいたるパレスチナ問題のきっかけとなった。
ペレド将軍は"パレスチナ問題を解決してアラブ諸国と平和な関係を持つには、
イスラエルパレスチナが別々の国として平和裏に共存する方法しかない"
と主張する「左派」であった。


そうした左派の家庭に育った少女は、
2歳の時に両親が参加する平和運動のポスターのモデルにもなった。
それは「この子が15歳になるとき、イスラエルはどんな国になっているだろう」
とのコピーが付され、子供たちが平和な人生を送れるように
パレスチナ人(アラブ人)と和平を結ぶことを提起したポスターだったが
運命の悪戯か、彼女は15歳になる前年、そのパレスティナ人によって命を失ってしまう。
ところがである。
この話は、ここで終わらない


少女の両親は、イスラエル中を駆けめぐる驚くべきコメントを発する。

娘が死んだことに対して、テロリストよりもイスラエル政府に大きな責任がある


彼女の両親が、このコメントを発した真意を後日尋ねられると、

テロや戦争で人が死んだとき、残された遺族が発するコメントは、イスラエルでは非常に人々の胸に響きます。
ふだんは、パレスチナ人との和平を説いても全く聞いてくれない人々でも、テロの犠牲者の父母が発する言葉としてなら、きちんと聞いてくれる。
娘が死んだとき、私たち夫婦は、打ちひしがれるのではなく、今こそイスラエルを良い方向に変えるための任務を果たさなければならないと思いました。


この少女の両親はなんと強い人間なのだろうか。
平和を唱えることは、ある種の覚悟が必要であり時して命すら捨てねばならない状況もある。
それを知っている人間がどれだけいるのか。
また知ってはいても、それを実行できる人間などざらにいるわけではない。
私はこの両親の深い覚悟にしばし言葉を失い、呆然とした。


パレスティナイスラエルの紛争は、その後、泥沼の一途を辿っている。
少女の両親の声も叫び銃声や戦車の音にかき消されているようにも見えるが、
いつか、少女の両親の願いの叶う日が訪れることを祈ってやまない。