夕べは、ワシントンに行って8時間ばかり球を撞いてきた。
来週公式戦があるので、結果はどうであれ、練習できる時には練習しておきたい。


撞き始めて、四時間くらいたった頃、店内のテレビに日本GPの画像が流れてきた。
少女達が美しい声で歌う君が代に見入ってしまい、そのまま暫くF1を観戦した。
最近、F1シーンには疎い自分だが、
佐藤琢磨が、6位にステップアップした瞬間に思わず拳を握ってしまった。
日本人が活躍しただけですぐ熱くなる単純な性格は、そうそう変わらないものだ。(笑)
佐藤琢磨は、日本人として初めて実力でF1シートを獲得したと言われる。


新谷かおるの漫画「ジェントル萬」で
「日本人が日本製のシャーシーの日本製のエンジンの日本製のタイヤの車にのって勝つ」
と技術者が語る場面があるが
この言葉は、長年レース活動に携わったきた故・本田宗一郎を始めとする
多くの日本人レース関係者の夢でないかと思う。
佐藤琢磨が、その夢をそう遠くない日に叶えてくれると考えるのは早計だろうか。


74年に事故死した風戸裕は、73年から74年にかけて、チーム・ニッポンを率いて
ヨーロッパのF2シーンで活躍した。
当時のF2は、現役のF1ドライバーも多く出場しており
その強豪相手に、風戸は十分過ぎる戦績を残した。
彼がもし75年以降も走っていたのならば、
日本人初のフルタイムF1ドライバーは、彼になっていたことだろう。
風戸にはその意志があったし、それが実現できる位置にいたのである。
不幸にも風戸は、その切符を手にすることはなかったが、
その夢は、風戸を支えたメカニック森脇基恭らに委ねられた。
彼の死から数年後、彼らが設立したノバエンジニアリングが
声をかけた岡崎訛丸出しの無名の青年こそ
後に日本人初のフルタイムF1ドライバーとなる中島悟だった


ホンダの第ニ期F1活動を立ち上がりを「F1地上の夢」として
ノンフィクション・ノベルを刊行した海老沢泰久は、こう云った。
「ホンダには、夢に取り憑かれた男が集まっていた。」と
組織やチームの枠を越え、時間の経過に色褪せることなく
語り継がれるものがあるとしたならば、それを夢と呼んで差し支えないだろう。
風戸の夢の系譜は、今も生きているのだ。
また、この夢を見ようと思う。