ジャイアントキリング

ワールドカップの11月開催の影響で
10月の決勝となったサッカー天皇杯
季節外れの感覚が否めない大会は
J2所属のヴァンフォーレ甲府
クラブ初のタイトルを獲得して幕を閉じた。
自分の贔屓にしている鹿島を倒しての優勝に
切歯扼腕するものだが
対J1クラブ5連勝を達成しての頂点奪取、
延長終了間際の相手PKのストップ、
延長戦でも勝ち越しを許さず
チーム最年長の山本が決めた優勝と
語る種の尽きないヴァンフォーレ
素直におめでとうとの賛辞を贈りたい。

J2発足から始まったプロクラブとしての歴史は
お世辞にも輝かしいとは言えなかった。
人気低迷、資金不足の弱小チームで
2000年代前半に消滅していても
不思議ではなかった。
クラブ存亡の時
窮余の一策として親会社が送りこんだ人物が
ケミストリーを起こさなければ
ヴァンフォーレの名はフリューゲルスのように
コアなファンの間でのみ語り継がれる存在に
なっていただろう。

選手引退後に指導者として
歩み始めた吉田達磨の来歴も
順風満帆とは言えない。
柏のユースで成果を出して満を持しての
トップチームのヘッドコーチ就任後
チームの低迷に苦しみ解任、
その後、若手育成等の実績を買われて
アルビレックスヴァンフォーレ
続いて指揮をとるものの
成績が残せず連続して解任されている。
今年からのヴァンフォーレ
執る2度目の指揮でも黒星が先行し
リーグ戦では苦戦が続いている。
理想とするサッカーと現実とのギャップに
もがき苦しむ最中での大金星は
サッカーの難しさと面白さを
象徴しているように感じる。



勝つサッカーが正しいのかー
正しいサッカーだから勝てるのかー
その答えをめぐり、サッカーは続く。

24時間戦えますか

note.com

「なにかあったらどうするんだ症候群」に罹った社会では未来は予測できることを前提としているために、何か起きた時にはどうしてきちんと予測しておかなかったのかと批判されることになります。だから何が起きるかを事前に予測して対処しなければなりません。この症候群に罹った人は、暗黙の前提として物事を未来からの逆算で考えています。

diamond.jp


労働賃金が韓国よりも安くなったという
記事をみかけた。
最近の円安の影響かと思いきや
記事の日付は1年前ー、
円の値段に関わらず
日本が韓国の下にあったという事実に
少なくない衝撃を受けた。
どうして日本はここまで落ちぶれたのか?


落ちぶれる前の日本には
当然のことながら活力があった。
その活力の源となっていたのは、
世界でナンバーワンを競っていた企業であった。

近頃、趣味の延長でホンダやソニー
シャープやビジコンの歴史を調べたが
戦後の日本において、一時代を築いた企業には
面白い共通点が存在した。
それは官僚の指導に逆らって、
製品開発を貫き、その至らなさを
白日に晒したという経験を有することである。

半導体に挑戦した東京通信時代のソニーを嘲り、
四輪車を生産するホンダに二輪だけ作れと規制をかけ
コンピューター(計算機)開発に乗り出したシャープを侮り
世界最初のマイクロプロセッサを作ったビジコンに
無駄な外貨を持ち出すくらいなら
潰れても構わないと傲慢な態度で邪魔をしたのは
日本のベスト&ブライトである官製大学出身の官僚らであった。
しかし、官吏らの妨害乃至非協力をのり越えて
各々の会社は成功をつかみ、
日本を明るく、面白くする。

つまり、賢しい頭で計算した官僚の作文を
頭数にも入っていなかった企業家たちが
思惑ごとひっくり返したから、
昭和の終わりから平成の初めにかけて
日本は輝いていたと個人的に感じる。

決して、政治が良かったから、
官僚が優秀だったから
日本が強かったわけではない。
平和という幸運にも恵まれたが
失敗をものともしない挑戦者達がいたから
日本は繁栄したのである。

挑戦者の後継たちは何に挑んのだろうか?
前任者の成功を誉めちぎり
それを踏襲することで
よしとしてこなかっただろうか。
失敗を恐れる官僚のように
ふるまってこなかっただろうか。

失敗を恐れることは必ずしも悪いことではないが
失敗を恐れて、何もしないことは悪である。
失敗しても、立ち上がればいい、
たったそれだけのことができない国に
何故なってしまったのだろう。

何かあったらどうするー
そこに日本の凋落を招いた病根が
潜んでいるように思えてならない。

永田町を始め、賢しい人間が多すぎて
なにやら社会全体が
お節介お母さん化してしまったような
動きにくさを感じる。

ソウちゃんとタケちゃんの夢7

 レースの後、夕闇がアデレードを包むころ、市内の日本料理店で、会社スタッフによる宴が開かれた。創業者のオヤジを迎えて、四輪世界最高峰のレースでチャンピオンとなったことを祝うことを前提として事前に予約がされていたものだった。
 
 レース序盤でネルソンはスピンしていたが、その後はミスを補ってあまりあるパフォーマンスだった。ネルソンは、最後までチャンピンにふさわしい走りをみせた。ネルソンはファステスト・ラップを重ねてアランに迫ったが、アランは動じることなく勝負に徹して82周を走りきった。アランもまたチャンピオンにふさわしかった。アランはネルソンよりわずか先にゴールに達した。ネルソンがゴールに到達したのはアランの4秒後だった。なぜ勝てなかったのか? エンジンの出力も燃費もポルシェよりも会社のエンジンの方が上だった。チャンピオンとなるために何が足りなかったのか―?、油断があったのか、ヨシは自問を続けながら席に着いた。

 宴会の会場は、畳が敷き詰められた日本風の部屋だった。異国での生活が続き、やっと帰国できるー畳の匂いに押さえ込んでいた故国への慕情があふれだしそうになった。ヨシの心を祖国へのなつかしさがしめた。だが、それはわずかな時間だけで、再び勝負に勝てなかった口惜しさが首をもたげた。

 ヨシがやるせなさと格闘しているうちに、オヤジが娘夫婦ともに会場にやってきた。全員が盛大な拍手で迎えた。現場から引退していたオヤジとともに勝利の美酒を味わうことをヨシは望み、それを叶えることができなかった無念がヨシの心を重くした。「せっかく、日本から来ていたオヤジさんに申し訳ないことをした」ヨシはオヤジに土下座してあやまりたかった。最終戦で勝利を逃がした会社のスタッフも、似たような気持ちだった。レースの結果にがっかりしながらも、ヨシを励まそうとしたアニキの言葉がよぎった。来年こそは―、ヨシは固く心に誓った。

 乾杯の音頭をとってもらうために若いスタッフがやや緊張しながらオヤジに申し出た。宴会に参加していたのは若いスタッフばかりで、オヤジと一緒に仕事をした人間はほとんどいなかった。最年長のヨシですらオヤジから怒声を浴びせられたのは1、2年に過ぎなかった。それでもスタッフ全員がオヤジの激しさを伴った情熱を知っていて、直接の薫陶はなくてもそれを受け注いでいる自負があった。

 オヤジは機嫌よさそうに頷いて、ビールが注がれたコップをもって畳より一段ばかり高くなっていたステージの上に進みでた。そこでヨシたちは信じがたい光景に遭遇した。オヤジはステージの赤いカーペットの上に正座して、コップを脇において手を床につけて深々と頭を下げた。宴会場にどよめきが起きた。満面の笑みを浮かべながら矍鑠としたオヤジの言葉が胸に響いた。ヨシは思わず嗚咽を漏らした。まわりのスタッフも衝撃を受けて、目に涙を浮かべた。

「世界一になるという私達の夢をかなえてくれてありがとう」

ソウちゃんとタケちゃんの夢6

「ナイジェルの燃料は大丈夫か?」ヨシはピットクルーに尋ねた。
「はい、このペースであれば5リッター以上残ります」

 昭和61年11月オーストラリア、アデレード。この年は、最高峰レースのチャンピオンシップは混戦となり、ドライバーズ部門は最終戦まで決定が持ち越されていた。最終レースが始まる時点でランキングトップは5勝のナイジェルだった。最終戦を3位以上でフィニッシュすればチャンピオンが確定する。ランキング2位のアランと3位のネルソンにも逆転でチャンピオンになる可能性はあったが、それはレースに勝利してかつナイジェルが4位以下でゴールというのが条件がついた。1位のナイジェルと3位のネルソンが会社のエンジン・ユーザーだった。

 前年途中、ヨシ達が設計した新エンジンのテストはことの他上手くいった。テストの結果に希望を見出したパートナーのフランクから新エンジンの投入を催促されるに至り「オレのエンジンを下ろすからには絶対に勝て」とノブのアニキは引き攣った顔でヨシに厳命した。意地やメンツよりも結果で語るーそれが会社の生き様ーそう理解したヨシは、全精力をレースに傾けた。結果、シーズン4勝を勝ち取った。前々年まで合計で3勝だった会社の総勝利数を上廻る好成績にノブのアニキは「オレのエンジンを引きずりおろしたからには、これぐらいの成績は当然だろう」と腹の中で葛藤している嬉しさと悔しさを隠しきれずに言った。このエンジンでチャンピオンを狙えるーヨシは前年末、その手応えを掴んでいた。

 最高峰クラスのレース復帰して5年目、フランクのチームのエンジンを提供して4年目になるこの年、ネルソンとナイジェルの二人で15戦のうち9つのレースで勝利をおさめ会社は初のコンストラクターズ部門のチャンピオンを獲得し、オヤジがめざした世界一を一つ達成していた。ただし、最高峰のレースにおいてチャンピオンというのは、コンストラクターズ部門ではなく、ドライバーズ部門の勝者というのが相場であった。そのドライバーズ部門の最高位も、あと30周たらずで手に入る―現場にいた社員は誰もがそう考えていた。サーキットで車の整備を行うピットクルーの半分は会社からの派遣組が占めており、ピットは初めての世界制覇を期待する雰囲気で満ちていた。82周で競うレースの55周が終わったとき、ナイジェルは4位を走行していた。

 ターボ・エンジンで競われていたこの年のレギュレーションの最大の特徴は、レース開始後の燃料の給油が禁止されていたことだった。つまり参加するマシンはスタート時に搭載している195リットルのみの燃料で速さを競うことになっていた。燃料がなくなったマシンはその時点でレースが終了となった。レース序盤から中盤にかけて極力燃料の消費を抑えて走り、”貯金”ができた時点でスパートをかけるのが定石の一つとなっていた。レース中盤ナイジェルの順位が4位に落ち着いていた時、レースをリードとしたのはケケだった。ケケは昭和57年のチャンピオンで昨年まではフランクのチームで走っていた。昭和59年会社に17年ぶりの勝利をもたらした立役者でもあった。ケケが現役最後を公言していたこの年、彼はポルシェ・エンジンのロンのチームを選び、昨年のチャンピオン・ドライバー、アランのチームメートとなっていた。ケケがチームを移籍した理由についてヨシは正確なところを知らなかった。契約金だったのか、フランクとの関係がこじれたのか、それともフランクのチームよりポルシェを載せるロンのチームの方が勝ち目が多いと踏んだのか―。正確な理由は本人のみぞしるだが、ともかく今年のケケは、倒すべきライバルとなっていた。

 ケケは、フィンランド人らしく勇敢なドライバーで、市街地を得意としていた。一般の道路を封鎖してコースとして利用する市街地レースは、ガードレールでコーナーの出口が隠れることが多いため、レース専用のクローズド・サーキットにはない恐怖心がドライバーを襲う。歩行者や対向車がいないと頭ではわかっていても、出口の見えないコーナーは死への恐怖が首をもたげるのだ。一秒に満たないほんのわずかの逡巡がドライバーにアクセルをためらわせ、勝負のアヤとなることもしばしばあり、ケケはそのアヤをつかむのが上手かった。前年のアデレードは、フランクのマシンと会社のエンジンとケケの組合せが勝利をおさめていた。

 アデレードの市街地コースのレースを先頭で走るケケをヨシはオーバーペースと判断した。敵のチームの燃料消費状況について正確なところはわかないが、彼は1年間戦ってきた相手の性能をほぼ理解していた。「燃料が持つわけがない。アランにチャンビオンを取らせるためにレースの展開をひっかきまそうとしている」とヨシは読んだ。ヨシはエンジンの責任者であった。レース全体の指揮はチーム・オーナーのフランクがとるものの、エンジンや燃費の計算、タイヤ交換についてはヨシがハンドリングしていた。マシンに取り付けたテレメーターは会社のもので、そのデータを読み解いて判断することはヨシにしかできなかったからだ。
「ケケは無視して大丈夫だ。ナイジェルの燃料をチェックしておけ」ヨシは、チームクルーに指示を出した。クルーからナイジェルにペースをキープしろとのオーダーが出された。ヨシは残り3周前後でケケの退場を予想していたが、それよりもずっと早い62周目にケケの最終レースが終了した。残りあと20周となった62周目、ケケの車がストレートを走行中、後輪のタイヤがバーストした。この日好天に恵まれたアデレードは気温が高かった。そしてタイヤの耐久性に大きな影響を与える路面温度も高くなっていた。タイヤのサプライヤーからは、タイヤ交換なしで82周の完走は可能という判断が示されていたが、ケケの荒い走りはサプライヤーの予想以上にタイヤを酷使していたのだ。

 ケケの退場でネルソンがトップとなり、ナイジェルは3位に繰り上がった。ナイジェルがチャンピオンの座をほぼ手中にしたとサーキットの誰もが思った。
「ケケのタイヤがいっちゃいましたね」
「ああ、彼はタイトなコースは速いけど、タイヤのグリップをフルに使うからな」と口を開いたスタッフにヨシは答えた。しばらくして「まあ、ナイジェルも似たようなタイプだな」と続けた。
「タイヤ交換させますか?」スタッフが尋ねた。
「そうだな、4位との差どれくらいだ」ー「40秒以上あります」
ピットでタイヤ交換すると一周のラップは約30秒ほど遅くなる。約10秒間のタイヤ交換の作業時間に加えて、作業場所であるピットに入るための減速とコースに復帰するまでに加速する時間を必要とするからだ。
「よし、ナイジェルにピットインの指示を出せ」ヨシは、クルーに指示した。しかし、サインボードを確認したナイジェルがその指示を実行することはなかった。

 63周目、時速200キロメートル以上のスピードでストレートを走っていたナイジェルのマシンにアクシデントが訪れた。突然、轟音とともに後輪が破裂し、数秒前までタイヤを構成していた黒いゴムは回転しながら1、2秒のうちに四散した。それをとどめる手段を思いつく間もなく、後輪のホイールがむき出しとなり、アスファルトを削り火花を散らした。モニターを見つめていたヨシは、タイヤを失いながらコース外で停止したナイジェルのマシンを見て頭の中が真っ白になった。ケケのリプレイであってくれ、自分の見間違いであってくれと祈った。しかし、サーキットはケケの時以上の悲鳴に包まれていた。レースの実況を放送していたスピーカーはカーナンバー6番とともにナイジェルの名前を何度も絶叫した。
 
「落ち着け」ヨシは自分に言い聞かせて平静さと思考を取り戻そうとした。ナイジェルがリタイヤしても、まだネルソンが走っている。ケケがリタイヤしたあとはネルソンがトップを走っていた。このままレースが終わればネルソンが逆転でチャンピオンだ。「ネルソンとアランの差は?」10秒です」間髪を入れないスタッフの答えに満足しながら、ネルソンが逃げ切れるとヨシは計算した。

 しかし、タイヤのサプライヤーから緊急の指示が全チームに入った。
”安全のためタイヤ交換を強く奨励する“ー「チッ」ヨシは舌を打った。タイム差からしてネルソンがタイヤ交換すると先頭をアランに渡さなければならなくなる。アランはレース序盤のトラブルでタイヤ交換をすでに実施していた。つまり、サプライヤーの指示はアランには適用されない。ネルソンを無理して走らせるか?しかし、ナイジェルのようにタイヤを破裂させてしまえば、全てが終わる。チャンピオンを獲得にはアランのトラブルを期待することになるが、ドライバーの安全には変えられない。クルーはネルソンがピット前を通過するまでにサインを決める必要があった。交換が遅くなればなるほど挽回できる周回が少なくなり、状況は厳しくなる。10秒足らずの時間でヨシは決断した。

 ネルソンにタイヤ交換の指示が出た。

ソウちゃんとタケちゃんの夢5

「ヨシさん、どうします?」会議に陪席していた後輩のスタッフが尋ねた。
「アニキの気の変わるのを待っていたら、シーズンが終わる。とりあえず設計を進めて試作品を作っておこう。テストや実車への搭載は作りながら考えよう」
「そんなことしていいんですか」後輩は驚いたような面持ちで再び尋ねた。
「俺はアニキに、チームを勝たせろ、と言われた」「はあ」後輩は納得していない返事をヨシに返した。
「アニキのエンジンは20年前のものだ。20年前だったらいざ知らずそんなエンジンを使っていたら、勝てるものも勝てない。アニキの機嫌をうかがってレースに負け続けるのと、新しいエンジンで勝つの、どっちがいい」
「そりゃ勝つ方がいいに決まってます」
「だったら、やることは一つ、勝てるエンジンをつくることだけだ」

 レースに復帰して3年目、アニキから責任者を命じられたヨシはシーズン3勝を役員と約束して予算の増額を認めさせていた。レース責任者とはいえ三十代半ば過ぎの係長クラスが要求したところで簡単に認められる類の金額ではなかったのだが、本社の副社長に昇進が内定していたアニキがレース活動を仕切っている事情が考慮されたことで、ヨシは活動資金を確保することができた。
 そして、ヨシを始めとする若手はエンジンの設計を着々と進めた。アニキのノブは、自身の設計が若手に否定されたことで激しい憤りを覚えたが、それだけだった。結果がすべて―15年前引退したオヤジはそういっていた。


 昭和40年代後半、会社はオヤジの主張と若手の主張が真っ向から対立し、会社の歯車がかみ合わなくなっていた。当時若手エンジニアだったノブたちは、単純な設計に基づくユーザー視点のエンジンを至上のものとするオヤジの考え方が限界に来ていたことを感じていた。このままでは会社が持たない―ノブのアニキたちはこの件をオジキのところに持ち込んだ。オヤジが技術で、オジキが経営・販売を所掌し、それぞれはお互いのシノギに口を出さないという二人の不文律は、社員ならば誰でも知っていたが、あえてそれを破った。八方塞がりとなったアニキ達はルールを守っても会社を守れなければ意味がないと判断した。

 新しい考え方でエンジンを作らなければ早々に会社がつぶれる未来図が見えるアニキ達は必死になって、オジキに訴えた。オジキはアニキたちの話を一通り黙ってきいた後「君たちの言いたいことは分かった。そのまま社長にいいなさい」と回答して翌々日にオヤジと若手エンジニアのミーティングの場をセットアップした。
ノブのアニキたちは狐に包まれたような気分になった。研究所でいくら説明しても理解を示さなかったオヤジが、ミーティングくらいで考えを変えるとは思えなかった。

 しかし、ミーティング当日、オヤジは一方的に怒り狂ってしゃべった後、「そんなに新しいエンジンやりたきゃ、やればいいだろう。ただし、失敗したら給料はないと思え」と机をたたいて退室した。会社消失の危機を回避しようとしたノブたちの要求は何も言うこともなく、あっさりとみとめられた。

 実は、アニキたちがオジキに直訴した後、オジキはオヤジとなじみの店で杯を酌み交わしていた。その席でオジキはオヤジに「ソウちゃん、この会社はアンタの技術者としての意地があったからここまで大きくなった。今、二輪車の売り上げはまずまずだが、四輪車が伸び悩んでいる。あたしには技術のことは分からん。ただ、四輪車のコストがかかり過ぎるているのは黙認できない、何でだ?」とオヤジに説明を求めた。

 オジキの口ぶりからノブのアニキ達がオジキに泣きついたことを察したオヤジは「タケちゃん、オレのエンジンでもまだやれるんだよ、説明したところで理解できるかどうかわからないけど、まだやれるんだ」とオジキの口撃に予防線を張った。オジキは、一息ついて徳利を差し出し、オヤジの猪口に酒を注いで口を開いた。
「あんたはあたしに経営を任せた。そしてあたしはアンタの領分である技術には口を挟むことなくこれまでやってきた。あたしはアンタの器に合わせて会社を大きくしたつもりだし、これからもそのやり方で大きくしていくつもりだ。」オヤジは黙って聞いていた。「アンタのその技術者としての意地は、アンタが社長を務めるこの会社をつぶしても守らなきゃならない大事なものかもしれない」口調こそ柔らかだが、有無を言わせないオジキの迫力にオヤジは詰った。
「だから、一つ聞かせてくれ、アンタは社長なのか、技術者なのか」オジキは覚悟をもってオヤジに即断をせまった。言葉の調子からオジキの心中を理解したオヤジは長い間沈黙ののち、ようやく言葉を一つ絞り出した。「技術者のプライドも大事だが、会社はもっと大事だ」

 オヤジが曲げなかった意地を曲げた瞬間だった。オヤジの心うちを読み取ったオジキは安堵した。「それじゃ、ノブたちに新しいエンジンを作らせますね」とオジキは確認をとった。「ああ」と返答したオヤジは「年を食ったな、俺も」と平手で自分のパチっと叩いてオジキにだけみせる素の弱い顔をあらわにした。オヤジの言葉に応じるようにオジキも「あたしもだ」と答えた。二人は顔を見合わせて、カッカッと笑った。

 オヤジが技術者としての限界を認めた3年後、オヤジは会社から身をひいた。技術開発、研究所の人材育成を含めた計画やらノウハウの一切合財を後任に指名したキヨシのカシラとタダシの大アニキに丸投げした。突然、二代目に指名されたキヨシのカシラは技術以外の仕事は俺のシノギじゃねぇ、と一週間ばかり出社拒否して駄々をこねたが、その駄々をあやすことがオヤジの最後の仕事となった。キヨシのカシラに丸投げされたもののなかに一つの心得のようなものがあった。社訓めいたものが少ない会社だが「日本を強くするために先人の技術を乗り越えろ」という生き方が伝承された。

 技術開発を行う研究所では技術者のあいだで「その技術は会社の利益になるか、日本の未来を明るくできるか?」の問答と議論が繰り返されることが常だった。勿論、そうした研究所のハリある空気はオヤジの情熱を引き継いだものだが、その研究所を作りあげた最大の功労者はオジキだった。研究所を社内独立させることで経営よりも技術を優先する会社の姿勢を明確にして、世界に通用する技術こそが存在意義であることを内外に示した。研究所が開発した製品を本社が買い取って生産するという他社に例をみない会社独自のシステムは、反対意見をねじ伏せたオジキの剛腕と技術絶対の信念があったからこそなしえた代物だった。そのオジキもオヤジと一緒に引退した。いつまでもジジィがいたら、若い衆が一人前に育たねぇんだよ、というのが理由だった。やはりオジキも仕事を後任に丸投げしたが、オジキの跡継ぎは駄々をこねることはなかったそうだ。オヤジとオジキは会社からいなくなって、社内はお通夜みたい静かになったが、その静かさを乗り越えて会社を成長させることが二代目らの初仕事にして最大の仕事となった。

ソウちゃんとタケちゃんの夢4

「ヨシ、もう一遍いってみろ」
「ノブのアニキの作ったエンジンは古いといったんです」
 アニキの目が大きく見開いていた。ヨシはノブが本気で怒っていることが分かった。
昭和60年2月、世界一を目指して四輪のフォミュラーレース最高峰に挑んでいた会社は壁にぶち当たっていた。研究所のナンバー2になっていたノブのアニキが会社の役員を説得してレース復帰の段取りつけてから3年、会社は捗々しい成果を残せずにいた。昭和36年マン島TTに勝利し、その後バイクレース全クラスで年間優勝を果たした会社は、四輪の最高峰レースにも昭和39年から5年にわたって挑んだ。その頃、二輪と四輪の両方のレースでエンジンづくりに携わったエンジニアは数人いた。ノブのアニキもその数人のうちの一人だった。

 二輪は参戦して3年で初勝利をもぎ取り、その年に年間優秀、つまりは世界一の座を獲得したが、四輪最高峰のレースでは、5年間で2勝したのみで主役の座をつかむことなく舞台から降りていた。世界一ははるかに遠かったが、届かない目標とは思えなかったとノブのアニキは言っていた。しかし、昭和40年代になるとオイルショック、排ガス規制と自動車業界を取り巻く環境が一気に変わり、それまで突っ走ていた会社の勢いは急速に衰え、若手のエンジニアをレースで鍛える余裕は消えた。オヤジが掲げた世界一への挑戦は、その入口に立つこと自体が困難となった。道半ばでの撤退はオヤジとしても不本意であっただろうし、現場で躍起になっていたアニキたちの口惜しさも筆舌に尽くし難かっただろうとヨシは推測した。実際、撤退が決まった頃、アニキはレースの世界にどっぷりつかっていて、会社を辞めてヨーロッパのチームに加わりレースを続けようとしていた。レースの現場責任者で四輪レースの元締め的存在であったナカさんは、引き留めるどころか「俺も若けりゃなぁ」とノブのアニキを羨ましがった。

 そんなアニキを引き留めたのが、今の社長であるタダシの大アニキだった。「会社の仕事をこなしてさえいれば、社外でレース活動してもいい」という条件で慰留したとのことだった。アニキにしてみれば、格落ちのレースとはいえ勝負できるのであればしばらく我慢してやってもいいか、くらいの気持ちだったらしい。
アニキを納得させたそのタダシの大アニキも若いころはレースにどっぷりハマっていて、会社が最高峰クラスに挑戦する以前に、国内のあちこちのレースで手伝いと称してエンジンのチューンナップしたり、パーツを横流して結構なヤンチャをしていた。ウチの車のユーザーならオヤジやオジキも黙認していたが、ライバル社の車もチューンしたというから、ヤンチャをするにもほどがある。ヨシが入社したころ、大アニキはレースの現場から離れていたが、オジキにワビを入れて事なき得たことは会社の技術者の間で伝説と化しており、ヨシも勝負にこだわる大アニキを尊敬していた。本当に三度のメシより勝ち負けが好きな連中ばかりが集まっていた会社だった。

 そんなヤンチャだった現社長のタダシの大アニキは、ノブのアニキを後継者に考えているらしく、研究所のナンバー2にして本社に役員の椅子を用意した。役員なんて柄じゃねえと断るアニキに、レースの続きをやりたきゃ、黙って受けろと無理やり座らせた。意にそぐわなかったとはいえレース好きのアニキが会社の事業計画に公然と口を挟める立場になったことで、四輪レースの再挑戦は会社の規定路線となった。アニキは役員になって2年で、レース再開のための大名分を整え、会議で予算を分捕り、チームを発足させ必要な資器材やレースパートナーの手配などを指示して、陣容をほぼ最短時間で作り上げた。しかし、計算高いアニキも一つ見込み違いがあった。それはエンジン設計者の手当がつけられなかったことだ。当時会社は新車の発表が延々と続く時期であり、社内にいたエンジン設計屋のスケジュールは2年先までほぼ埋まっていた。だったら、レースに復帰する時期を少しずらせばいいのに、その少しを我慢することがアニキにはできなかった。結局、アニキが自分でエンジンの図面を引いてレースに復帰することにになった。曲がりなりにも上場企業の役員だから、そんな暇などあるはずないのだが、レース復帰をプレスリリースする頃には図面をほぼ完成させていた。18年前の設計をベースにしたエンジンを現行のレギュレーションに合わせだけのシロモノだったかもしれないが、それでも簡単にできる類の話ではなかった。

 ヨシに言わせれば、ノブのエンジンは埃と錆にまみれた設計思想だった。ヨシはそれをノブ本人に古いと伝えたことで罵声を浴びせられた。ただその古いエンジンが昭和59年のアメリカの市街地開催レースで勝利を勝ち取っていたのだから恐れ入る。勝利を悦ぶより、アニキのエンジニアの腕に舌を巻かざるを得なかった。だが、1勝しようが古いものは古い。エンジンで生じる排出ガスでタービンを回して、エンジンに入り込む気化燃料を増量させ、燃焼によるパワーを増幅させるターボ・エンジンは、高回転で高出力を目指した時代の設計と根本的に違う。回転数の高低よりも、全体的なバランスが重要となっっていた。コーナーとかエンジンの回転が落ちる時に出力が極端に低くなる欠点を克服できない構造の古いエンジンでは、他社のエンジンに勝てる目はない。ノブのアニキが設計したエンジンが勝利した理由は、天候やコースレイアウトの関係でエンジンの差がつきにくく、かつドライバーが市街地を得意としていたことに助けられた部分が大きかった。それ以外のクローズド・コース、つまり普通のサーキットでは他のメーカーのエンジンとの性能差は明らかとなり勝負に持ち込むことすらできなかった。

「高回転、高出力のエンジンのどこが悪い」オヤジは、15年前に引退したがオヤジが目指したエンジンの回転数を高めて、高馬力を追求する考えは会社のお家芸になっていた。車体の軽い二輪車はそれで問題はなかった。しかし、重い四輪車では通用しない。タイヤが余分に2個ついているだけでなく、エンジンからの出力をタイヤに伝えるシャフト、ドライバーのシート、ベルト、流線形のボディ、タイヤの接地効率を高める羽根、そして強烈なGが加わる車体の剛性を支える補強材、そのいずれもが極限まで軽量化が図られているが、規定で総重量を500キログラムをいくばくか越えることが定められていた。これに燃料やドライバーの体重が加わる。レース全体では最高馬力を出せる時間と区間はごく限られており、500キログラム以上の物体の加速と減速を絶え間なく繰り返す時間の速さが求められていた。

最高峰のレースといえども、最高出力ではなく回転数が変化しても出力を滑らかにできるエンジンの方が強いのである。レースに勝つためには会社従来のものと別なロジックが必要だった。それはオヤジから続いている高回転エンジンとの決別を意味した。最高峰のレースで低迷が続く現状を見かねて、アニキが緊急のミーティングを設けたが、怒り出したアニキが席を立ったため、会議はお開きとなった。

ソウちゃんとタケちゃんの夢3

「ソウちゃん、世界を目指そうよ」オジキの言葉を続けた。
「……」オヤジは目を瞑った。
「会社にはでっかい夢が必要なんだよ。うちの会社には技術もある、日本に貢献するというソウちゃんが掲げたぶっとい芯もある。あとは大きな目標があれば、会社はまだまだ伸びる。」
「……」オヤジは黙ったままだった。
「あんたと5年やってきた。その俺がいう、あんたの器は大きい、あんたに合わせた会社を作りあげるから世界を目指してくれ」オジキの言葉にかみしめたあとオヤジは「……わかった、タケちゃん世界一の会社を作ってくれ」といった。

自分で製作した自動車で、全世界の自動車競走の覇者となる……同じ敗戦国であるドイツの隆々たる復興の姿を見るにつけ、わが社の此の難事業を是非完遂しなければならない。
日本の機械工業の真価を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。わが社の使命は日本産業界の啓蒙にある。ここに決意を披歴し、TTレースに出場、優勝するため精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。右宣言する。

 オヤジは、オジキに世界一の会社を作ってくれと頼んだ1週間後、社内と関連会社に世界を目指すこと宣言文を発表した。戦争特需の終わりとともに勢いだけあった会社が日本の産業界からポツポツと消えていた時期、ウチの会社もそうなると思う人間も少なからずいた。事実、従業員、関連会社、メインバンクのどれか一つでもそっぽを向けば、そうなっていてもおかしくはなかった。そんな会社から唐突に飛びした世界への宣言は、はた目には悲壮な覚悟というよりも滑稽な三文芝居に映ったことだろう。しかし、世界一を目指すという目標は、現場で働く従業員の肌に浸透し、長い時間をかけて会社の血肉となった。ただ、それがわかるには20年以上の時間を必要とした。

 昭和29年3月末、怒涛の決算期をどうにか凌いだ後、オジキはオヤジをイギリスへ送り出した。オヤジのイギリス遠征は2か月に及んだ。5月に開かれた株主総会は社長不在のまま迎えた。オジキに言わせれば、社長が外遊するくらいの余裕があれば倒産するわけがないと、株主や関係者が勝手に思い込んでくれることを期待して送り出したというものだったが、嘘の下手なオヤジが馬鹿正直な発言をして余計な仕事を増やさないための段取りだったと穿った見方をした古参の社員もいた。案の定、株主総会では厳しい質問が飛び交い、解任動議が採決されてもおかしくない不穏な雰囲気が流れることもあったが、過剰ともいえた設備投資に対する効果は遅くとも来年のアタマには現れてアンバランスな収支も改善できる見込みであることをオジキが粘り強く丁寧に説明して、メインバンクがオジキの計画を支持したことでなんとか持ちこたえることができたらしい。最後は、2年後のマン島TT出場を宣言し、会社の更なる前進を約束して締めたということだった。倒産の何歩か手前にいった会社が世界進出など、株主にしてみれば正気の沙汰とは思えなかっただろう。とりあえず自信に満ち溢れた言動、世間ではハッタリともいう高等技能を駆使してオジキは総会を乗り切った。ただし、そのあと疲労困憊で1週間ほど起き上がれなくなった。決算期前からのこの期間、相当の心労がオジキにかかっていたことは誰の目にも明らかだった。

 社内のあらゆる部署に神出鬼没しては火を吐くオジキと現場でいつもカミナリを落とすオヤジの二人がいない会社は、静かで仕事に集中するにはうってつけの状況だったが、ほとんどの社員はどこかぎごちなく、仕事にさほど身が入っていなかった。騒がしすぎるのもこまりものだが緊張感を欠いた業務も効率が上がらないことを社員は学んだ。だがそうした状態も長くは続かなかった。オヤジ帰国するとの電報がロンドンから届いたのだ。6月に入るとオジキも顔を出すようになり、会社の雰囲気がビリっと締まり、以前のように社内のあちこちで持論をまくしたて活発に議論する社員が出没し、この会社らしい喧噪な空気が戻ってきた。オヤジとオジキのいない会社は、普通の会社みたいで居心地が悪かったという社員は少数派ではなかったらしい。

 オヤジは、大量のバイク部品を土産がわりに持ちかえった。空港でオヤジを出迎えたオジキは「もう大丈夫だ」と告げた。オジキの言葉にホッとしたような顔したオヤジは「そうか」といって、オジキにネジを渡した。
「なんだ、これ?」それはオジキがみたことのない、日本で使用されているものとは違っていた。
「イギリスの工場に落ちていたネジだ。十字に溝が切ってあるだろう。溝をそうやって切っておいて機械で締める。……世界との差は大きいなぁ……」自信家のオヤジとは思えないほど控え目で謙虚な言葉だった。
「そうか」とオジキは答えた。「でも、戦うんだろ」
「当たり前さ」オヤジは、かっかっと笑った。