北の湖


現役時代、憎々しいまでに強かった。
その強さが何に支えられていたのか
思い馳せることなく、ただ嫌いだった。
その強さが愛に支えられていたとは
つゆほどにも考えたことはなかった。


http://www.hochi.co.jp/sports/etc/20151126-OHT1T50044.html

「強くなるまで帰ってくるな」

三保ケ関部屋への入門は、中学に進学後、その強さを聞いた当時の三保ケ関親方(元大関・増位山)がスカウト。他の部屋からも声がかかったが、おかみさんが編んでくれた手編みの靴下に感激して入門を決めたという。


 今は、義務教育を修了しなければ力士になることは許されない。しかし、当時の相撲協会の新弟子検査の規定は、13歳から入門が許された。中学1年で角界へ飛び込むことを決意した敏満少年。しかし、最後まで反対した人がいた。母・テルコさんだった。何度も母に頼んでも、うなずいてはくれなかったという。毎日のように力士になる思いを打ち明けた息子に最後は根負けのような形で入門を認めた。


 頑として力士になることを認めなかった母。入門を許した時、息子にこう伝えたという。


 「強くなるまで帰ってくるな」。


 北の湖理事長は、当時を振り返ってこう話した。


 「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。どんな時でも耐えることができたんです」。


その上でこうも明かした。


 「うちの母ちゃんは、えらかったよ。13歳の息子に帰ってくるなって言えたんだよ。自分が子供を持つようになって分かるけど、とてもじゃないけど自分の息子に“帰ってくるな”なんて言えないよ。あの時、どんな思いでオレに、あの言葉を言ったのかと思うと、すごいなぁって思うよ。相当な覚悟がなければ言えませんよ」

http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20151126-OHT1T50130.html

母との約束を果たしたのは、1974年名古屋場所だった。前の夏場所で2回目の優勝を果たし迎えた7月。優勝決定戦で横綱・輪島に敗れたが13勝2敗の成績で横綱昇進を決めたのだ。21歳2か月での最高位は、史上最年少での昇進だった。この記録は今もなお破られていない。


 番付編成会議と理事会で第55代横綱に推挙。伝達式は、名古屋市内の三保ヶ関部屋宿舎だった法持寺で行われた。口上を述べ、記者会見を終え昇進の儀式を終えた直後。新横綱は真っ先に宿舎の中にあるピンクの公衆電話へ向かった。

 ダイヤルを回した相手は、ふるさとにいる母だった。

 「うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」。

時機を失したかもしれないが
偉大な母子の冥福を祈る