追憶


浅田次郎のエッセー集「ひとは情熱がなければ生きていけない」には
氏が10代の頃からの憧れだった作家三島由紀夫に対する思慕を
綴った文章がある。
不可解な死を遂げた後でも、死んだからこそ彼を神聖視している。
若くして死んだ人間というのは、
伝説としてアンタッチャブルな存在になりがちであり
落日の晩年がない分だけ美化されることがままある。



だだ今の人間が読んでも三島の流麗珠玉のような文章は
長嘆息のほかはなく、文壇のみならず当時の人間が
こぞって賞賛してやまなかったのも宜なるかな、である。



さて、エッセーを読みながら日めくりみると
鈴鹿で夭折した天才日本人ライダーの命日が近いことに気が付いた。
偶然といってしまえば、それまでだが
何か因縁めいたものがあるような気がしないでもない。
いや、やはりただの偶然だろう。
バイクには乗っていたこはあるものの
その道を真剣に目指したことのない人間の思いを
浅田氏のそれに比べるという不遜な行為が許されるわけがない。
ただ三島に対する浅田次郎の想いには到底及びはしないが
加藤の超絶のライディングに対しては
多くのモータースポーツファン同様、賞賛する声を惜しむものではない。


motoGPファンのみならず日本人ならばレースを見るたびに
「大治郎がいれば」と一度や二度呟いたことだろう。
彼と同世代の日本人ライダー日本人は目の前のライバルの他に
大治郎という幻影とも戦うことを余儀なくされて
それが負荷になっているような印象を受ける。
彼より若い世代に属する青山博一ですら
加藤大治郎が目標」というようなことをインタビューで語っていた。
当分、彼らの大治郎の呪縛がとけることはないだろう。
それはある意味、大治郎の逝去より
日本のモータースポーツ界にとってもっと不幸なことかも知れない。



さて、motoGP第三戦の週末が始まる。
大治郎を越える日本人の誕生を期待しつつ