発動機

レースは走る実験室
本田宗一郎


エンジンサプライヤーとして活動していたホンダのF1第2期は、
出だしに苦しんだものの86年頃から圧倒的な強さを発揮した。
その頃、ホンダは年間200基のエンジンをサーキットに持ち込み
ほぼ毎レースごとに新しいエンジンを用意した。


67年から86年まで約20年にわたりF1にDFVエンジンを供給し
156勝したコスワースがこの間に生産したのがわずか200基足らずだというから
第2期のホンダの生産ペースがいかに異常だったか、理解できるだろう。
ターボが導入される以前、故障や破壊された場合を除き
エンジンは1シーズン1基で、複数のシーズンにわたって使用するのも珍しくなく
シャーシーも若干手直しするもののシーズン中に設計を変更して
作り直すということは皆無だった。
だから、シャーシーが失敗すれば、
その年はもう終わりで、来年頑張ろうということで話は済んだ。


だが、ターボエンジンがF1を変えた。
F1は巨大な資金と開発力がなければ勝てないレースになってしまった。
そしてホンダがそのやり方を加速させ、
ためにパートナーであるウィリアムズからその姿勢を、
「子供じゃあるまい、お前らなんでそんなに勝ちにこだわるんだ。」
と非難されたこともあった。


エンジンのアドバンテージが全てであるようなレースとなってしまい
トップドライバーはこぞってホンダのエンジンを渇望するようになった。
80年後半90年代前半のホンダバッシングはそういう状況から起きた。


そうした第二期の強さを知るものとしてホンダの第三期は歯痒いものだったが
やっと勝つことができた。
なにやら、エンジ1シーズン1基というレギュレーションが取り沙汰されているが
ホンダはホンダであった欲しいと思う。