白い航跡

白い航跡(上) (講談社文庫)

病気を診ずして病人を診よ
高木兼寛


昨日のサッカーの試合後、
明治時代の海軍軍医高木兼寛の人物伝である「白い航跡」を読んだ。
八ヶ岳南麓天文台串田嘉男さんの勇気ある行動を見て、
思い浮かんだのは明治の医師・高木兼寛ことだった。
「真実」を知った時、己の立場を悩みながらも
人として採るべき道を基準に行動を起こすところが
両者とも良く似ているからである。
人命に関わることだとしても、己の利害を超えて行動できる人間は、そうざらにはいない。
ネット検索したら吉村昭氏が物語化していたことを知って、早速手に入れた。



明治時代の日本の軍隊の最大の敵は、清でもロシアでもなかった、と言えば
多くの人は疑問符を付けることだろう。
私も長い間知らなかったことなのだが、明治時代、軍隊は脚気に悩まされていた。
栄養過多で太り過ぎを心配しなければならない時代からすれば
そうした病気の症状や存在すら知らない人間も多くいるのではないだろうか。


明治27年日清戦争に関わる朝鮮派兵から台湾平定で
戦死者が977名、戦傷死者293名であったのに対し
病気による死者は20159名を数えうち脚気によるものは3944名(罹病者34783名)で
マラリアよりも多い罹病者を出した。
明治37年日露戦争では、陸軍は兵員約110万人を出兵し、約4万7千人の死者を数えたが
脚気患者21万人以上、脚気による死亡者27800名という戦慄すべき事態が発生していた。


一方の戦争当事者である海軍ではこの期間において脚気患者の発生は
ほぼ皆無であったが、海軍もかつては陸軍と同じように、
いやそれ以上に脚気には苦しめられていた。
明治11年海軍総員4528名中1485名が罹病、
12年には5081名中1978名、13年4956名中1725名、
14年4641名中1163名と毎年総員のほぼ3分の1が脚気に掛かっており、
10年から14年海軍において脚気による死亡者は146名を数えていた。
陸上戦闘では総員の30%が死傷した場合、その部隊の機能は喪失するといわれている。
海軍は脚気によって戦わずして滅亡に瀕していたが
脚気の予防方法を発見しそれを徹底したために、
日清日露の戦役ではその厄災から逃れることができた。
個人的には、日露戦争の勝因の一つに数えてもいいのではないかと思う。


驚くべきことなのだが、海軍の脚気の予防方法が確立されたのは、
明治44年鈴木梅太郎オリザニンビタミンB1)を発見する20年以上も前のことである。
その偉大な発見をし、予防法法を確立した人物・高木兼寛について
東京慈恵医大の関係者を除き国内で知る人は稀であるが、
彼の功績は、海外によく知られている。
南極にある幾つかの岬を、
ビタミンの研究で著しい業績をあげた学者の名にしようとした際
彼も選ばれており、現在南極には、高木の名前を冠した岬があることから伺えるだろう。


彼が脚気に取り組んだのはイギリス留学から戻り海軍病院長に任命されてからである。
脚気の研究を進めるにつれて、一つの事実を発見するに至る。
摂取する食物のうち、窒素1に対して含水炭素が28から30になる比率で
食事をとると脚気になるという事実である。
彼は実験を重ね脚気の原因が食事にあるという確信を得て、
兵食和食から洋食の切り替えを海軍卿に上申する。
が、海軍将官会議の結果は将来において、改善を約束というものであった。
遅々として改善を進めなかった理由としては、洋食は和食の二倍の費用にあたり、
貧しい日本では、白米がたらふく食べられるという理由だけで海軍を志す者が多く、
また兵の殆どが副食分の食事代を貯めて家に仕送りしていたという事情もあった。



明治16年約10か月の練習航海を行った龍驤において
3782名中169名が罹病23名が死亡するという事態が発生した。
このままでは海軍が脚気によって滅ぶと危機感をもった高木は、行動を開始する。
高木は、皇族、伊藤総理、そして天皇にまで上奏するという驚異の行動力で
次回の遠洋航海「筑波」において、洋食を支給することを
海軍上部に同意させるのだがこれだけでは、彼は満足しなかった。
彼は、龍驤と同じ航路を筑波に求めたのである。
脚気の原因が気候や風土、細菌によらないものであることを明確に証明するためである。
これには、彼の進言を積極的に取り入れてきた川村海軍卿も難色を示した。
しかし、彼は、あきらめず大蔵省と交渉し、再び伊藤博文と会い、
この不可能と思われることを実現させた。



明治18年2月3日品川沖を出航した筑波は、
ニュージーランド、チリ、ハワイと航海を続けた。
高木は筑波のことが気がかりで酒を飲まなければ眠れない夜を
また出勤前に神社に参拝するという朝を
両親の位牌に祈願するという日を続けた。
高木の立てた仮説が間違っていれば、筑波には多くの脚気患者が発生するだけでなく
自身は虚偽を天皇に述べたことで職を失い、
国家予算を浪費した罪で投獄される危険性すらあった。
自分の仮説に自信があっても、悩まずに生きていけるほど人は強くはないし、
彼もそうだったと推測することはたやすくできる。
また彼は、この航海を実現させるにあたり、多くの行動を起こしたが
それは多くの反発を招いており、冷ややかな目で見られる事も多かったのであれば
なおさら不安に感じたことだったろう。


10月9日高木は、川村海軍卿から出頭するよう命じられる。
川村海軍卿は、ハワイに寄稿した筑波が打った電信文を見せた。
彼は、その電信文を読むと涙で文字が歪み、喉元に熱いものがこみ上げてきた。
嗚咽をもらすのを彼はかろうじてこらえた。
それにはこう書かれてあった

ビョウニンシャ 一ニンモナシ アンシンアレ