晴子情歌

晴子情歌 上

拉致問題について憤然とした感情を抱えながら、
高村薫の「晴子情歌」を読んだ。
色々と含む所の多い小説で、
自分の中で消化しきれないというのが正直な感想である。
筒木坂、野辺地、八戸とtacaQにとって心当たりのある青森の土地を舞台に
昭和という時代を生きた晴子の生き様を
作者が肯定しているのか、否定しているのか、その判別すらつかなかった。


軍閥、戦争、労働運動や学生運動、都会やその場所においては
確かに熱を持って人の人生を大きく揺り動かすエネルギーを持っていたものが
地方という辺境の、その日暮らしの少女においては絵空事であった。
だが、そうしたエネルギーは最果ての地でささやかな生活を暮らしを営む少女にも
確実に、そして大きく影響を及ぼしていく。
その様は、時代の波に翻弄される人間の哀しみの連鎖であり
波に飲み込まれながらも、生き抜いた人間の強かさを証していた。

割れもせぬ革命の手形しのばせ
ばくちに負けたすがすがしい顔で
俺は歩道の奥、爆発する冷たい水を飲む

谷川雁の詩を引用して、三井で働いた男がつぶやくシーンがあるが
高村薫が描きたかったのは、この言葉に収斂されるのではないかと思う。
作中にたびたび出てくる「隠微」という物語の主旋律が
この場面に全て凝縮されているように感じるからだ。


以前、作者の高村自身は何かのインタビューで語っていた、昭和の日本を書かねばと。
それは、暗くうつろな禍々しい空気に覆われただけの戦前・戦中でなく
また明るく華やかな上を目指して歩いただけの戦後でもない。
昭和という時代を生きた確実な「生」達を
一定の距離をおいて、書いていながらも、
物語が否定的或いは皮相的にならないのは
出てくる登場人物の全てに体温を、人間の感情を与えているからである。

笑い、歎き、楽しみ、悲しみ。
人の営みがある以上、いつの時代もそれは変わらない。
人は、それぞれに暗渠を抱え、その暗く底の知れぬ闇を恐怖しながらも
その闇にある種の懐かしさと心地良さを覚える。
いつの時代も矛盾と葛藤を抱えながら人は生きていく存在なのだろう。
今の日本人が忘れようとしている苦しさ、辛さ、哀しさを
強烈な力をもって思い出させるかのような力の入った物語である。


夕べの呑んだ爆発する水が支配する頭で、そう思った。