情と理の乖離

北朝鮮関連のニュースを聞くたび、観るたび、やるせなさと憤りが首をもたげる。
亡くなられた八人の笑顔を映し出している劣化した印画紙が、
この失われた二十数年という歳月を否応なく感じさせる。
その気の遠くなるよう時間、家族は写真に何を語りかけたのだろうか
思えば思うほど胸が痛む。


全く見当違いなことだが、
救出のための交渉ではなく、実力行使を行う立場であったのならば、
躊躇わず半島へ行くことを決断しだろう
それほど惜しい命とは昔は思っていなかったし
指加えて眺めていることを耐えられるほど分別があったわけではない。
だが、かく偉そうなことをいう自分も、
対岸の火事と他人事を決め込んで眺めていたことを否定できず
拉致なんてあるわけない寝ぼけたことを言っていた明き盲のような代議士や外務省と
大差がある立場ではない。
だから、余計に腹が立つ


彼の国から、拉致疑惑の情報、査察の受け入れ、ミサイル実験停止を
引き出した今回に首脳会談は、満点に近い成功だと分かっているが
ただどうしても納得できない。
それは理屈でなく感情の部分である。
自分と同じ感情を多くの日本人が抱いていることだろう。
櫻田淳はそれを「情と理の乖離」と呼んだが、正鵠を射ぬいていないだろうか。