義和団の乱において、各国公使館が争乱に巻き込まれた際
冷静な対応で各国から賞賛を浴びた柴中佐
彼が晩年になった時、少年時代の悲憤を綴ったもので
過酷ともいえる艱難辛苦が回想されている。
一藩あげての流罪に等しい処分を受けた会津藩
会津藩士の薩摩に対する恨みは並大抵のものでなく
その激しさは早乙女貢「会津士魂」に詳しい。
この書はそうした恨み辛みから記したものでなく
戊申戦争で亡くなった多くの会津人の生を
証すために著したものである。
10歳の少年が戦争に巻き込まれ
母、姉、妹の自害、故郷を追われ
着る服なく、食べる物なく、あばら屋に居を構え
餓死寸前の状況に陥る様は
試練というには、あまりにも不遇であり
同情を禁じ得なかった。
高い教養がありながらも、下人同様に扱われ
日々の糧のために堪え忍ぶ柴氏の少年時代の暮らしに
どれほどの人間が困窮に追い詰められ、辱めを受けたのかを
想像するに難くなく
不当に人を貶めて恥じることなく高位を得て
安閑と暮らしていた者らにいいようのない憤りを感じた。
少年期、満足に教育を受ける機会に恵まれなかったことに対し
柴氏はある種の劣等感を持ち、文章に自信がなかったようであるが
この書を一読すれば、その内容や文の格の高さからすれば
柴氏の杞憂にすぎないことがわかる。
幼年期の僅かな期間で、
これほどの日本語を操つるようになったするならば
寧ろ、会津藩の教育の質の高さを賛嘆すべきかも知れない。