翔ぶが如く


新装版 翔ぶが如く (1) (文春文庫)

三沢の後輩月読み君に感想を訊かれたので
約10年前を想い出しながら書いてみる。


NHK大河ドラマにもなった名作ではあるが
この小説は作者司馬遼太郎の筆に迷いが見られる。
それは司馬自身が西郷隆盛というキャラクターを
理解できなかったことによるのではないだろうか。
なぜあれほどに人から慕われたか、
その人としての大きさが物語を進めながらも最後の最後まで
実感できていかなったような気がする。


小説の感想は人によって様々であるが
ここでは、西郷と大久保の比較に絞ってみたい。



明治政府の殊勲者西郷隆盛は、新政府成立後
正しい生き方を模索し始める。
それは、勝ち馬にのった連中が利権を漁ろうとする風潮に
嫌気がさしたせいもあるが
倒幕のために権謀術数の限りをつくした自身の後悔によるものが大きかった。


西郷は征韓論を唱えてそれを否定され政府役人を辞したと
云われることが多いが
彼自身は一度も征韓論を唱えたことはない。
頑迷な韓国政府を開明させるために自身単独による訪韓によって
交渉を行うとしただけである。
それは死の危険を伴ったものであり、日韓戦争に至る可能性があったため
盟友であった大久保利通によって退けられるが
彼自身は、自身の生死は問わず
未開の国をには慈愛をもって接するのが文明国の務めという独自の理念に
基づいた行為の延長だった。


西郷は、訪韓が否定されたことをきっかけとして下野し鹿児島に戻るが
桐野利明らを始め、彼を慕う者達が彼の元に集う。
それは、彼が自らを計らずとした無私の精神に示したこともさることながら
人徳によるところが大きい。
その人徳の大きさが、彼を反乱の首魁へと押し上げ悲劇的な死へと
おいやるのは歴史の皮肉だが
彼は、理屈や理論ではなくその人格によって
人を心から従わせるリーダーの理想とする統御というものを
体現した人物ではないかと思う。


西南戦争を幼なじみによる大喧嘩と矮小化する気がないが
彼の敵を象徴するに相応しいのはやはり大久保利通である。
国家運営という現実的な視点に立脚した大久保は
実務的かつ効率的である以上にある種の冷酷さが感じられるほど
政治においては非情の人間であった。
その点でも東洋的な慈愛の精神を政治に持ち込もうとした西郷とは
好対照をなしている。


西郷率いる反乱軍を鎮圧するのに、
農民出身が中心の鎮台兵だけでは不足とみるや
かつての旧敵会津藩士を中心とした抜刀隊を送り込み
戦況を有利なものに導くなど、阿漕といえば阿漕である。


自らを死に場所求めた故に人に慕われた西郷と
国家が生き残る手段を追求した結果人に畏れられた大久保。
勝敗を度外視し正義を求め、部下から死んでもいいと心酔された西郷と
勝敗のためなら、人を命すら躊躇わず費やした大久保。
二人をリーダーとしての捉えた場合、その言動を比較して
理想は現実に常に無力化スポイルされてしまう、と一言で
かたづけるのは簡単だが
問われるのは、それぞれの信念の在り方だったではないかと思う。


西郷の理念が顕現した国家ではあれば、
人はもっと正しく生きることができたであろうが
より多くの困難が国家のみならず国民にも課されたであろう。



蛇足だが、戦後の理念なき再建の総括が求められつつある今
どちらの生き方を選ぶにしても、
政治家の貌から信念らしきものが感じられないことに
軽い軽蔑と絶望を覚えている。


現実なき理想は無力であり、理想なき現実は無意味である。