沖縄の島守


沖縄の島守―内務官僚かく戦えり (中公文庫 (た73-1))





「おれが行かなんだら、だれかが行かなならんやないか。
 俺は死にとうないから、だれか行って死ね。とは、よう言わん」
第二十七代沖縄県知事・島田叡


1944年米軍の沖縄上陸の可能性が囁かれ、
その危機が現実となり
多くの沖縄県民が災禍に巻き込まれるなかで
牧民官として県民を一人でも多く救おうとした島田あきら
沖縄県警察部長として前県知事や内政部長の妨害に屈せず
多くの県民を疎開させた荒井退造
数々の悲劇が繰り広げられた多くの命が奪われた太平洋戦争末期の沖縄戦だが
この2人がいなかったら、さらに多くの民間人が犠牲になったことだろう。


島田の前任知事は、米軍の空襲が激しくなるや
何かと理由をとってつては待避壕や那覇市外に逃れ行政機能を麻痺させてしまう。
当時各都道府県知事は、内務省に任命権があり、これを更迭しようとしたが
誰も沖縄県知事を引き受ける者はおらず、県知事を交代させることができなかった。
そうした折、第三十二軍司令牛島満が、
以前の任地で知己であった島田を推薦したことから
彼に沖縄県知事の就任の話が持ち上がることになる。
サイパンが陥落し、米軍の沖縄侵攻は確実視される中、
島田はそれを承知で引き受け米軍侵攻の約2か月前に県知事に就任する。
沖縄到着後は、荒井県警察部長とともに精力的に働き、
軍の作業や県民の疎開、食糧の備蓄にあらん限りの力を尽くす。
米軍侵攻が始まるまでのわずかな間に台湾に赴き、
台湾米の搬入に成功させるなどは
制海権も制空権もない中で行われたことを思えば偉業といっていい。
県外脱出が困難になれば、県民を県北部へ避難させ多くの県民の命を救った。


県の官No2である内政部長が出張と偽り県外脱出し
少なくない数の県職員も県外へ脱出する中で、
最後の最後まで県民の命を救わんと行動する島田と荒井の様は、
戦前の内務官僚とはかくも筋の通っていたものか、感嘆せざるをえない。
こうした彼らの献身的、かつ英雄的な行為があったからこそ
海軍の太田少将をして「沖縄県民斯く戦えり」の文を打たせしめたのだろう。


己の命を捨て人を救う英雄になれずとも、英雄を語れる人間でありたいと思う。