ツウの恩返し1


明け方の五時過ぎツウが私の布団に乗ってきた。
「ん。もう五時か」私はいつものように目を覚ました。
「何、ずいぶん早いのね」となりで寝ていた智美が恨みがましい声で文句を言った。
彼女は私が高校の頃からの友人だ。四年前関東に嫁いで以来久しぶりに神戸に戻ってきている。
「ごめんなさい、我が家には融通の利かない目覚まし時計があるのよ」
「ふぁわー。私一回、目が醒めると寝られないのよね」
ツウが私たちをリビングに導くように私たちの前を歩く。


朝5時になるとツウは必ず私を起こす。
夫と二人で寝ている時はベッドの近くでばたばたしているだけなのだが、夫が出張で私が一人で寝ている時は、布団の上にのったり顔にひげをこすりつけたりと起きあがるまでしつこいくらいに攻撃してくる。そして目をさました私をリビングまで案内するのだ。お腹すかせているのかなと思って、えさを用意したこともあったが全く食べようとしない。彼女と暮らすようになって八年になるが未だもって謎の不思議な習慣である。
ツウの毎朝の儀式に慣れたとはいえ、前の日に夜遅くまで仕事をしていた時などはつらい。そんな朝は面と向かって嫌味や文句を言うのだけれど、彼女は私の言葉を意に介する様子は全くない。怒るのも馬鹿らしくなるくらい彼女はマイペースだ。


二○○一年が明け、二十一世紀になってもう半月になる。が、自分の周りがことさら変わったという実感はない。私の身の回りにあるものはすべて二十世紀のものだ。マンションも家具も夫も、そしてツウも前世紀の遺物である。もっとも時代遅れという形容が一番ふさわしいのは私自身だが。
ツウは、八年前マンションの前で拾った。やせっぽちでフラフラしていたくせに妙にお腹が大きかった。持っていたパンを分け与えると一心不乱に食べた。その仕草が心にひっかかり、彼女を獣医に連れて行った。彼女は妊娠しており受診した獣医は、仔は全部死んでおりツウ自身も長くないことを告げた。それでも私は彼女が気に入り、夫に無理を云って飼うことにした。出張の多い夫は、番犬ならぬ番猫になればいいねと飼うことを認めてくれた。
「お前もいつか鶴みたいに恩返しするんだぞ」と笑いながら私はツウに云った。
ツウは獣医の見立てに反して八年たった今でも元気でいるが、私に恩返してくれる様子は全くない。


リビングのテレビをつけるとニュースが流れていた。画面は六年前に亡くなられた方の合同慰霊祭が行われることを告げていた。
「ああ、やってるわね」
「美奈子は行かなくていいの?」と智美が私に尋ねた。
「うん。誘われてはいるけど、ちょっと……」私は語尾を濁した。
「そっか……」
答えにならない答えを聞いた智美はそれ以上詮索しなかった。


「ねえ、美奈子。あれから六年になるんだね」
智美が私に云った。
「早いものね」
あの地震から六年だ。あの地震でたくさん人が亡くなった。恩師、友達、職場の同僚、本当に数えきれないくらいたくさんの人がなくなった。瓦解した街並みを目の当たりにして私は悪い夢だと自分に言い聞かせた。そう言い聞かせて自分の正気を保とうとした。しかし何度目を瞑っても悪い夢は覚めなかった。そしてこれが醒めない夢だと悟った時、生き延びようと思った。必死で動いた。何をしたかよく覚えていないがとにかく生き延びることができた。今も住んでいるマンションは揺れが激しかったものの幸いにしてひび割れ等もなく倒壊するおそれがなかったが、ライフラインが切断され、生活物資の確保もままならず被災生活は惨憺たるものだった。暖房用の灯油が手に入らず寒さと恐怖で震えながら、空腹を抱え漆黒の夜を幾晩か過ごした。やがてライフイランが復旧し、救助物資がスムーズに配分されるようになって初めて生を実感することができた。ちょうどその頃から訃報が次々と届けられた。私は失ったものの大きさを改めて知り身震いが止まらなくなった。


「ナゼ生キ延ビタノ?」
“声”が聞こえようになった。被災から街が復興し、人々の顔に笑顔が戻っても、いや街が元通りになるにつれて“声”は大きくなった。何気ない日常の中、突然“声”が私の耳に響いて、私の心を凍らせることがしばしばあった。そんな時私は動悸がひどくなり呼吸が乱れ、場合によって倒れることもあった。“声”におびえる私に、夫は生きていくことは生き残ったもの義務だとやさしく諭す。夫の心遣いで気持ちが軽くなることもあるが、それでも私の心には“声”が溶けない氷のように張り付いている。幸せに生きようとする私を冷たい風にさらし芯から凍りつかせる。私は自分の生きている意味が分からなくなった。いや震災前から生きることの意味など分からなかったが、自分の生に疑問を持つようになった。亡くなった人の中にはどうしてあの人が、と思う知人が大勢いた。私は生き延びたことを後ろめたく感じている。