ツウの恩返し2


「そのツウもね、ここのリビングにいてテレビが吹っ飛んだ台の下でガタガタ震えていたの。」
「よっぽど怖かったのね」
「私だって怖かったわ」
「そうね、私も死ぬかと思ったし、そのあとも覚悟を決めたことが何度かあったわ」
ツウがテレビの下であくびをした。
「ところでツウのご飯は」
「七時くらいからよ」
「あれ?お腹が空いたから美奈子を起こしたんじゃないの?」
「違うわ」
「なんで?」
「私にもわからないわ。でも毎朝五時過ぎになると私を起こすのよ」
「ふーん、変わった猫だね」
私たちは画面をみながら、しばらくとりとめもないことを喋った。時計の針が五時四十六分を指すと二人とも口を閉じて、テレビの画面から流れてくる慰霊祭の様子を見つめた。


「もうじき夜が明けるね」カーテンをめくると紺色の空から朱に染まりつつある鮮やかな彩りの空が見えた。
「きれいね」私はつぶやいた。
「なんかの映画に、空を見て綺麗だと思うのは心が綺麗だっていう台詞があるの。知ってる?」と智美が訊いた。
「知らない」
「ん。だから私は綺麗な空が見えてるうちは、幸せになっていいんだって自分に言い聞かせてるの」
その時、ツウが智美の足に絡んできた。智美はツウを両手に抱えて持ち上げて彼女を見つめた。
「お前も怖かっただろうね」


「あっ……」
しばらくツウとじゃれて遊んでいた智美が突然真剣な面持ちになった。
「ねえ、智美」
「何?」
「ツウがさ、五時頃に起きるようになったって、ひょっとして六年前からじゃない?」
そういえば、飼い始めた頃、ツウは毎朝寝ていた。私が支度する朝食の匂いで目を覚ましていたのだ。五時起きするようになったのは確かに六年前くらいからだ。
「気がつかなかったけど、云われてみれば六年前かな」
「震災の後?」
「うーん、多分そう。ウチにきた頃は毎朝グーグー寝てたわ」
「それって……」
「なんかあるの?」
「違ってるかもしれないけど」
「うん」
「ツウはさ、美奈子を守ろうとしてるんじゃない」
「……?」
私は智美の言葉を理解できなかった。智美は言葉を続けた。
「ツウは、地震がきてもリビングなら安全だよって美奈子に教えてるんじゃないの?」
「えっ?」
「だって、そうじゃない。地震の時、ツウはここに避難してケガせずに過ごしたってあなた云ったでしょ。ツウにとってここは安全な場所なのよ。だから、地震が来る前にここに避難させようとして五時過ぎに美奈子を起こすのよ」
「……」
智美の推測は俄には信じ難かった。そんなことを私は考えたことがなかった。猫がそんなことを思ったり、行動したりするのだろうか。だが、智美の仮説が正しければ、ご飯を食べるわけでもなく毎朝私を起こして5時46分前にリビングへ案内するツウの不可解な行動もすべて説明ができるし、合点がいく。私は少し混乱した。
「拾ってくれたお礼じゃないの?だとすれば随分義理堅い仔だよね、ツウ」と云いながら智美はツウの喉を鳴らした。


「ニャア」
ツウが鳴いた時、何かが割れた音が聞こえた。そして私は心の線が一本に繋がったのを感じた。私の感情が、せき止められていた感情が六年ぶりに心からあふれ出してきた。私はツウの行動を理性ではなく感情で理解した。両方の目から涙がこぼれ落ちた。
「どうしたの美奈子?」
私のぐしゃぐしゃに崩れた顔をみながら智美が訊ねた。
「わたし震災から後ずうっと一人ぼっちだと思ってた」
「うん」
「主人とかが私を支えてくれたけど、私はずうっと怖かったの。自分はここで生きていくべき人間じゃないとか思って」
「そんなことないよ」
「そう、そんなことないのよ。でも私は今までそう考えられなかった」
「……馬鹿ね」
私の肩に智美はやさしく手をおいた。
「そう、馬鹿。私馬鹿だから、全然気がつかなかった。でもツウは、ツウは、私に生きろって云ってくれてたんだよね」
「六年間ずうっと生きろって云ってくれたんだよね、私馬鹿だから気がつかなかった」
智美はツウを私に渡した。
「ツウ。ありがとう。本当にありがとう」
私はツウをちょっと強く抱きしめた。


(了)