長崎ぶらぶら節

雨降らば雨降るとき
風吹かば風吹くとき、コツコツと響く足音
「嗚呼、あれは横須賀体育大学の学生さんではないか」
・・・・・・
たたく電鍵、握る操舵機、はたまた上がるアンカーの響き
船は出て行く、ポンドは暮れる 
我は海の子カモメ鳥
小雨降る春の小原に、木枯らし吹きすさぶ冬の波間に
歌は悲しき時の母、苦しき時の友なれば
我らここにある限り、小原の丘にある限り
絶ゆることなき青春の歌
いざや、歌わん、横須賀体育大学逍遥の歌


「横須賀体育大学逍遥歌口上」(一部)


毎年この時期になると横須賀市内のあちこちの飲み屋で
横須賀体育大生がこんな口上を宣って放吟する姿をよく見かける。
その姿は端からみるとあまり格好よくないのだが
tacaQとしては、昔のバンカラ気風を伝えながら
「歌は悲しき時の母、苦しき時の友」と嘯く、この口上がとても好きである。
シャンソン、ブルース、ゴスペル、民謡、演歌、etc...
世の中に歌は数多くあれど人間の性サガというものは変わらない
悲しければ悲しみを唄い、楽しければ楽しさを歌う、である。

「歌の不思議たい。
 英語ではエアー、フランス語でエール、イタリア語でアリア、ドイツ語でアーリア、
 ポルトガル語でアリア、つまり空気のことたい。
 歌は目に見えない精霊のこだるもんたい。
 大気をさまようてた長崎ぶらぶら節が今、うったちの胸に飛び込んできた。
 これをうったちが吐き出せば、誰かの胸に入り込む。
 そうやって歌は、永遠に空中に漂い続ける。
 これが不思議でなくてなんであろう。」

なかにし礼の「長崎ぶらぶら節」は長崎から昔から伝わる歌を探し歩き、
それを伝えようとした市井の学者・古賀十二郎と芸者愛八あげはちの二人の物語である。


明治時代、大店の跡取り息子として生まれた古賀は、
家の金をつぎ込み研究に長崎学の研究に打ち込む。
そうした研究の先に、長崎の歌を探さなければという天啓にも似たひらめきを得て
それを実行するのだが、それは平易な道のりではなかった。
嘲りを受け、ときには乞食を見るよう蔑みの目でみられながらも
過去の歴史に埋もれようとしていた歌「長崎ぶらぶら節」を見つけだすー
という筋書きであるが、作詞家であるなかにしは、
晴れの日も雨の日も古書に向かいペンを走らせ言葉に命に吹き込んできた学者の姿に、
自分の生き様を重ねたのではないだろうか。


なかにしの自伝的小説「兄弟」の中には、
当時、十把一絡げの作詞家に過ぎなかったなかにしが
自らの出世作となった「知りたくないの」の「訳」を巡って
歌手生命を賭けていた菅原洋一と対立する話が挿入されている。
この逸話が本当かどうかは本人達のみぞ知るだが、
人が人と出会い、時には火花を散らし磨くことによって
歌に命が吹き込まれるということは、おそらく事実であり
それを最も伝えたかったのかも知れない。


たかが歌、されど歌
悲しき時の母、苦しき時の友として・・・


長崎ぶらぶら節 (文春文庫)

長崎ぶらぶら節 (文春文庫)