大空のサムライ

今日語る人物について、どれくらいの日本人が知っているだろう?
世界で最も偉大なパイロットの一人とした数えられた日本人のことを。
大東亜戦争後、敗戦うちしがれる国民を奮い立たせようとして、
GHQの戦犯追及すら覚悟して自分の戦歴を発表した人物がいることを。
大東亜戦争において、200回以上にわたり出撃し64機を撃墜し、
驚くべきことにその間、二番機以下の自分の部下を一人たりとも戦死させなかった元軍人を。


先ずは、不明を恥じよう
大空のサムライとして、世界にその名を轟かせた坂井三郎氏が先月亡くなっていたそうだ。
恥ずかしい話だが、新聞の投稿欄でこの事実を知った。
米軍のパーティに参加されている時に倒れ、間もなく逝去されたとのことである。
坂井氏は、海軍では憧れとされている艦の砲手となったものの、
大空への思いは断ちがたく周囲の反対するなか希望を貫いてパイロットとなり、努力を重ねた。
昼間でも星が見えたという氏の視力は、航空機を飛ばすことに
対する絶え間ない精進の賜物だったに違いない。

大東亜戦争直後、台湾からフィリピンへの長距離出撃が当時の常識をうち破り成功を納めたのは、
坂井氏の功績だけではないが、それを可能にならしめたのは零戦の優秀な性能だけでもなかった。
(米軍は、フィリピン近海に日本の空母がいたと推測して捜索した)
しかし、開戦初期こそ、縦横無尽に活躍した零戦だが、
戦争の経過とともに米軍が戦法・戦闘機に改良を加えたことにより、その優位は失われていった。
泥沼の消耗戦となったラバウル・ラエの南方戦線で数々の空戦を戦い抜き、
戦績を重ねた。片目を負傷し、内地へ転送となった後も、
戦闘機に搭乗し、五機を撃墜しエースとなっている。
技量もさることなが、その気概はまさに「サムライ」と呼ぶに相応しい坂井氏の生き様であった。


蛇足なことだが、こうした人物の訃報がニュース記事の片隅に追いやられ、
哀悼の意を示す人間が少ないのは寂しいことだ。
今、この国が平和であり、食べ物に困ることなくなく豊かな暮らしを享受できるのは
一体誰のおかげだろう。
戦後の日本人だけの力だけで、ここまでこの国が繁栄したわけではないのに。
今はただ、多くの汗と血と涙を流して国の礎を築いてこられた方々の冥福を祈りたい。