栄光のトライ

栄光のトライ―日本ラグビー名勝負史 (カッパ・ノベルス)

栄光のトライ―日本ラグビー名勝負史 (カッパ・ノベルス)

今から10年ほど前、深谷市の古本屋で買った本。
購入した時点で時代を感じさせる内容だった。
松尾雄治らが活躍した昭和50年代やそれ以前の
国内チーム、代表チームのラグビー名勝負を綴られており
日本において楕円形のボールをめぐった戦いが
熱くて若かったであろう時代を否が応にも感じさせた。


昭和46年9月のイングランド相手に日本が演じた大接戦も
熱く記されていた。


【日曜に書く】人に信頼された記憶 論説委員・別府育郎 - 産経ニュース

【日曜に書く】人に信頼された記憶 論説委員・別府育郎


阿修羅原

 
ラグビー全日本や近鉄で活躍した大型フォワード、原進が4月28日、長崎県諫早市内の病院で亡くなった。68歳だった。

 
「阿修羅原」の名で戦ったプロレスも引退して後は故郷に帰り、母校諫早農業ラグビー部のコーチも務めた。平成14年には全国大会に導いている。

 
当時、聞いたことがある。教えは単純にして明快だった。

 
「今のラグビーは、正直いって分かりません。ただラグビーの51%はコンタクトスポーツ。速くて強ければいい」と、徹底してプロレス式の筋力トレーニングを導入した。


地元の中学生らに、講演をする機会もあった。そうしたときに、原が必ず熱く語った試合がある。昭和46年9月28日、東京・秩父宮ラグビーの母国イングランドを招いた代表戦。全日本は3-6で敗れたが、双方が力を出し尽くした。当日はテレビ中継もなく、映像は残されていないが、まさに死闘と呼ぶにふさわしかったという。


秩父宮

 
原は急造プロップとしてスクラムを支え続けた。最初のスクラムで「重い」と感じた後は、全く覚えていない。真っ白な記憶。ただ試合前のロッカールームで、監督の大西鉄之祐に掛けられた「原、信頼してるぞ」の一言が忘れられない。

 
「信頼されたこと。それに応えることができたこと。子供たちに、その感動を伝えたいんです」。そう話していた。

 
大西率いる全日本はこの3年前、ニュージーランド遠征でオールブラックス・ジュニアを破り、世界を驚かせた。来日した全イングランドには花園の初戦で19-27と敗れたものの、残り5分まで同点の激闘で、秩父宮の最終戦にファンの期待は極限まで高まっていた。試合当日、競技場を幾重にも取り巻くファンに、主催者側はグラウンドまで客を入れることを決めた。

 
「炎のタックルマン」石塚武生は当時早大1年生で角帽をかぶり場内整理にあたった。「足先を前の人の尻につけるように整然と芝に座り、指示にも従ってくれました。それがラグビーなんです」と話していた。

 
花園の激闘で脱水症状を起こして入院したロックの小笠原博は病院のベッドに近鉄の後輩を押し込み、秩父宮に合流した。ロッカールームでは大西が「お前たちに日本のラグビーは任せた。青春に悔いを残すな」と水を注いだ杯をたたき割り、「死んでこい」と選手を送り出した。「原、信頼してるぞ」の一言は、このときの言葉だ。


試合は、タックルに次ぐタックルの応酬。後に伏見工業を率いて「泣き虫先生」と呼ばれる山口良治ラインアウトでボールを投げ入れる際、ファンにふくらはぎをたたかれ、「頑張れよ」と声を掛けられた。そこまで客は入っていた。

 
得点はペナルティーゴールのみの3-6。終了間際、中央突破の萬谷勝治からノーマークのエース坂田好弘へラストパスが渡ったところで、スローフォワードの短い笛。続けてノーサイドの長い笛が吹かれた。

 
満員の観衆がグラウンドになだれ込み、両軍選手を騎馬や肩車に乗せて練り歩いた。萬谷は「誰一人、暴徒ではなかった」と後に話してくれた。


忘れるな

 
大西はイングランド対策にスクラム強化とバックスに切り札が必要と考えた。大型ナンバー8の原をプロップへ。ウイングからフルバックへ配置転換の萬谷がライン攻撃に参加した。

 
スクラムの第1列は職人技の世界でもある。原は、秩父宮の本番では近鉄の先輩で本職の川崎守央が起用されると思っていた。だからこそ大西の「信頼」の一言がうれしかった。

 
原は「ラグビーをやって真っ白な世界を感じられたのはあの試合だけです。プロレスでも追い続けましたが、あの高みを感じることはできなかった。秩父宮の試合が僕のスポーツの集大成なんです」と話していた。

 
「最後のパスはスローフォワードではなかった。絶対に」と晩年まで悔しそうだった萬谷も亡くなった。

 
死闘を終えた夜、朝まで飲んだ大西邸で一番はしゃいでいたというスクラムハーフの控え、宿沢広朗も亡くなった。英国4協会からの初白星は後に、宿沢監督の下で成し遂げられる。

 
大西もすでに亡く、石塚までが若くして亡くなった。

 
秩父宮ラグビー場も、やがてその姿を大きく変える。命や形は失われても、とどめるべき記憶はある。(べっぷ いくろう)


掴みかけていた世界との差は
かぎりなく大きく広がり、
人間も場所も、スポーツをとりまく環境や考え方も
大きく変わった。
それでもこの国に繋がれたものがあるとするならば
証を見せてほしい願うー。


以上なんちゃってラガーマンのひとりごと