生等(せいら)もとより生還を期せず

生命懸けておまえ達を 守ったと言わせてやれ
それを正義と言うつもりはないが 時代と片付けたくもない


今の青春を羨ましくなくもないが 替わろうかと言われても断るだろう
不幸な時代の若者たちはそれでも青春を確かに見たのだ
銃弾に倒れた友の顔を 忘れることなど出来ない
あいつの分もあいつの分もと 生きる思いは解るまい


さだまさし「戦友会」

みなみと氏のつぶやきで
さだまさしの戦友会という曲を知ったその日
読売新聞の社会面に
「生等(せいら)もとより生還を期せず」
と宣言したことを後悔してるかのような文章が掲載された。
読売新聞のWebには掲載されていないため
手入力した。

1943年出陣学徒壮行会の学生代表
「答辞 幸せではなかった」江橋元教授初めて語る


「生等(せいら)もとより生還を期せず」。
1943年秋に東京・明治神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会で、
戦地に赴く学生の代表として、
そう答辞を読み上げた江橋慎四郎さん(89)(東京大学元教授)が13日、
答辞を読んだいきさつを初めて公の場で明らかにした。

外地で亡くなった戦友を思って沈黙を守ってきたが、
卒寿を前に事実を語ることにした。


14日で90歳になる江橋さんは、東京都内のホテルで開かれた
「卒寿をお祝いする会」の席上、東大時代の教え子ら約100人の前で
静かに語った。


江橋さんは、当時、東京帝国大学文学部の学生。
行事などで学生の代表を選ぶ場合、各学部から順番に出す決まりがあり
壮行会は文学部の番に当たっていた。
さらに、江橋さんは水泳部のマネージャーや体育会の運営を
取り仕切る「総務」などの役職にあった。
「それが当時を読むことになった理由ではないか。
優秀な学生だったわけではなく、交通事故のような偶然です」


そして、「どういうわけかああいう目にあった。
あまり幸せではなかったけれど」と心境をのぞかせた。


昭和の名文と言われる答辞の文章については
「もとの分を国文学の先生に添削してもらった。
私にはああいう宣言文はかけません」と明かした。
江橋さんは航空機整備兵などとして内地にとどまったが
壮行会に臨んだ多くの学生が戦地で命を落とした。
その無念を思ってか、江橋さんはこれまで、
壮行会についてほとんど語ることはなかった。


教え子の一人は、
「壮行会から67年。真実をきちんと残すべきだと
思うようになったのでは」と話している。


戦争を知らない世代が、
あの時代を生きた人やその行為について
批判する権利などはないのかもしれないし
それを口にす気もない。



戦争を懺悔しているかような言辞に
個人的には悲しさを覚えるのみである。